Wednesday, August 31, 2011

To Nagano...


8月15日−21日、私たちは、私の故郷の信州の松本に行きました。

月曜日は、乗鞍高原にあるノース・スターで泊まりました。創立者&デイレクターの私の弟、デン、が野外活動によってキリストの愛を示したいのです。ぜひ、ノース・スターで泊まってください。

ホサーナ、シェーンとジャシュアは、私たちが泊まっていた安曇野ファミリーチャペルの近くで乗馬を少しました。ぜひ、日曜日、チャペルを訪ねて下さい。

ジャン兄の家族の一緒に日本アルプスのふもとにある安曇野市の公園をenjoyしました。

日曜日、松本市にある豊かな命教会でメッセージしました。私たは、何年か前に、ここで奉仕していましたが、今は、ジャン兄&家族が奉仕しています。ぜひ、ここも訪ねて下さい。

Monday, August 29, 2011

主よ、憐れんでください。


主よ、憐れんでください。

わたしは嘆き悲しんでいます。

主よ、癒してください。


主よ、立ち帰り、

わたしの魂を助け出してください。

あなたの慈しみにふさわしく、

わたしを救ってください。


わたしは嘆き疲れました。

夜ごと涙は床に溢れ、

寝床は漂うほどです。

苦悩にわたしの目は衰えて行きました。


主はわたしの泣く声を聞き、

主はわたしの嘆きを聞き、

主はわたしの祈りを受け入れてくださる。


聖書・詩編6編から


『ここでご紹介している言葉は、聖書「詩編」という書物からの言葉です。「詩編」とは、昔の人々(イスラエル人)の歌や祈りを集めたものです。これは、大きな悲劇に遭遇したり、親しい人を失いながらも、自分を創造して下さった方の変わる事のない愛に癒しと希望を見出した人々の、心からの叫びを表現したものです。。。。あなたの心の叫びとなさって下さい。あなたの言葉が、皆さんの置かれている困難な状況の隅々にまで、慰めと力をもたらすものとなりますように。』

神田英輔(写)、When the Foundations of Life Are Shakenより


Sunday, August 28, 2011

Camping


8月12−15、家内の奈帆が東北で奉仕していた時、kidsと私は高知の仁淀川でキャンプしました。チャーリーも。

セミが丁度、抜け殻から出て、シェーンのlife vestにいた時です。

「野のゆりを見よ。」イエス・キリスト テントの近くのゆり

水曜日、子どもは、多分、8時間近く側の中で、泳いだり、飛び込んだり、渡ったりしていました。

Saturday, August 27, 2011

『謙遜』


福音*は、革命的です。キリスタン大名大村すみただは、教会で彼と彼の家族のための特別な席を拒否しました。彼は、主の前に平民と一緒にしてひざまずきました。(*『福音』は、良き訪れという意味で、聖書のメッセージのエッセンスです。)

偉大なキリスタン大名高山右近(写)は、彼の藩の貧民のお葬式の費用を全て払いました。一回、お葬式の行列に加わった時、彼自身が行列を妨げていた木を自分の手でかたずけました。平民がキリストにあって、尊い価値があるのを知って、この地位のあった大名は、謙って、平民に仕えました。

「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」聖書・エペソ4:1−3

聖アウグステイヌスはこう言いました。「キリスト教の一番目の掟は何かと私に聞けば、私は、一に謙遜、二に謙遜、三に謙遜、と答える。」全ての人は「神のかたちに似せて創られ」ました(聖書・創世記1章)。全ての人は、罪人で、全ての人は、神の博愛の対象であるのです(ヨハネ3:16)。誰でも、平民であり、大名だあり、イエス・キリストとその十字架を信じ仰ぐと、創り主の前で平等であり、愛されているのです(ローマ3:23−24)。

自分の罪深さを深く実感する事が謙遜です(エペソ2:1−3)。全てがただ神の恵みによってあることを実感する事が謙遜です(エペソ1章から3章)。頂いたものは、全て創り主の恵みによるものであって、イエス・キリストとその恵みなしでは自分は何でもない、何も出来ない、と分かっているのです。

ですから、神の前で謙り、人々に仕えるのです。


Friday, August 26, 2011

マーケットで奉仕


7月30−31日、家内の奈帆と長女のホサーナは、知り合いのマーケットで奉仕しました。売り上げの50%は、東北のネーズに仕えている団体(家内が東北と行った団体<リンク>)に送られました。感謝しています。

Thursday, August 25, 2011

『王位の奪われもの』


「私たちの悲惨さは、王位の奪われものである。」ブレーズ・パスカル “Our wretchedness is of dispossessed kings.

私たち人間は、栄光と悲惨せを持っている、とパール・クリン(Paul Glynn)は書いている。

永井隆は、こう考えた:ネズミは星を見えない。ミミズは、花を見えない。

しかし、私たちは、自分の悲惨さ盲目さ罪深さを認めれば、私たちの心に恵み、聖書と悟りが注がれ、イエス・キリストを通して、神とその栄光を見、奪われた地位を取り戻すことがでくる。

「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせて下さいました。」聖書・エペソ2:6


Tuesday, August 23, 2011

家内の奈帆は東北へ行って帰って来た


奈帆とチームは、8月8日〜12、日東北の東松山市で奉仕ししました。

他のメンバー

泊まっていた教会

牧師夫婦

聖書から力を頂いての奉仕

韓国や名古屋からのボランテア

周りにあった家

先ず、一日目は、庭の清掃でしたが、その後の二日は、家の中の清掃やリフォームでした。オーナーの慰めにもなりました。話を聞いたり、一緒に祈ったり、ハグしたり、聖書の文書を差し上げたりしました。

私たちは、立派であるからではなく、イエス・キリストは、私たちの為の、また「多くの人のための、(十字架上の)贖いの代価として、自分のいのちを与え」、私たちを罪から救ったから、このように奉仕するのです。また、イエス・キリストが「仕えられるためではなく、かえって仕えるため」に来たので、その模範に従って奉仕をするだけなのです。イエス・キリストはこう言いました。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」聖書・マルコ10:43−45 私たちは、極めて恵まれているから、私たちは、その頂いた恵みをただただシェアしたいものです。