Thursday, September 29, 2011

しかし、私たちは、神を忘れました。


南北戦争中、アブラハム・リンカーン大統領(1809-1865年)がこの祈りを捧げました。<リンカーンは、熱心に聖書を読み、神に祈る大統領として知られています。アメリカのお金に『In God we trust』(神に信頼する)とありますが、彼が大統領の頃からそれが刻まれました。また、感謝祭が彼の頃からはじまりました。彼は、敬虔なキリスト者でした。>

『というのは、神の治める力に自ら頼り、謙った悲しみで自分の罪や過ちを告白するのは国々または人間の義務であります。しかし、真実な悔い改めは、慈愛と赦しに導く、と確実な希望を持つのです。また、聖書に告げられて、全ての歴史において証明されているように、神を主とする国のみが祝福される、この崇高な真実を認めなければなりません。神の律法によって分かりますが、国々は、個人のように、この世において、罰や懲らしめに服従させられますが、私たちの国を破壊している、この酷い南北戦争の苦難が、私たちの大胆な罪の罰であることを、正しく恐れなければならないのではないでしょうか。民全体として国が改革される必要とされているのではないでしょうか。私たちは、天の豊かな恵を受けています。平安と繁栄に長い間守られて来ました。他の何の国よりも、私たちは、数、富と力において成長して来ました。しかし、私たちは、神を忘れました。私たちを平和のうちに守り、繁栄させた、力ずけた、(神の)恵み深い手を忘れました。また、自分の崇高な知恵や道徳によって、この祝福を得た、と心の中で自分を欺いて、空しく考えています。自分の耐えない成功に酔って、私たちをあがない(救う)、守る神の恵を必要としない、過剰な自信を持ち、私たちを創った神に祈る必要がない傲慢さになっているのです。この失礼を受けた神に対して私たちは、自ら謙り、国の罪を告白し、寛容と赦しを祈る必要があるのです。』

アブラハム・リンカーン、1863年3月30日


<元の英文>
" Whereas, it is the duty of nations as well as of men to own their dependence upon the overruling power of God, and to confess their sins and transgressions in humble sorrow, yet with assured hope that genuine repentance will lead to mercy and pardon, and to recognize the sublime truth, announced in Holy Scripture, and proven by all history, that those nations only are blessed whose God is the Lord. And, insomuch (sic) as we know that by His divine law nations, like individuals, are subjected to punishments and chastisement in this world, may we not justly fear that the awful calamity of civil war which now desolates the land may be but a punishment inflicted upon us for our presumptuous sins, to the needful end of our national reformation as a whole people? We have been the recipients of the choicest bounties of Heaven; we have been preserved these many years in peace and prosperity; we have grown in numbers, wealth and power as no other nation has ever grown. But we have forgotten God. We have forgotten the gracious hand which has preserved us in peace and multiplied and enriched and strengthened us, and we have vainly imagined, in the deceitfulness of our hearts, that all these blessings were produced by some superior wisdom and virtue of our own. Intoxicated with unbroken success, we have become too self-sufficient to feel the necessity of redeeming and preserving grace, too proud to pray to the God that made us. It behooves us, then, to humble ourselves before the offended power, to confess our national sins and to pray for clemency and forgiveness."


Wednesday, September 28, 2011

長崎 2


島原城の後、私たちは、原城に行きました。島原の乱の最後の戦いでした。

高い十字架の横に若いリーダー天草四郎の小さな墓。そして、彼の像。

島原の乱と関係している近くの博物館に行きました。殉教した老夫婦と孫娘の記念碑です。最後まで信仰を貫きました。

原城で虐殺された人の遺骨です。子どもや老人も含まれています。徳川幕府は”無情”(憐れみ無し)でした。

Tuesday, September 27, 2011

『友のためにいのちを捨てる』


戦場に架ける橋で有名になりましたが、第二次世界大戦、連合軍は、タイで日本軍の強制労働によって線路や橋を作らせられました。しかし、この映画は、真実を全て語っていません。

その残酷な状況の中で、収容された皆は、野蛮になりました。しかし、皆ではありませんでした。

ある日「シャベルがなくなっていました。日本軍の将校は『シェベルを出さないと、殺すぞ!』激しく怒りました。誰も動こうとしなかったので、ピストルを出して『皆殺しにする』と脅かしました。彼が本気だと、皆が分かりました。

そして、ある男が前にでました。将校は、ピストルをおさめ、シャベルを取り上げ、その男を叩き殺しました。他の生き残った人が、次の道具確認に行きました。今回、シャベルがなくなっていませんでした。一番目の道具チェックの時に数え間違えたのです。」

その男は、他人のために命を捧げたのです。『人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はないです。』聖書・ヨハネ15:13

「この話は、収容所全体の広がりました。罪のない人が他を救うために死なれたのです。。。この出来事がすごい影響をあたえました。。。男たちは、互いを兄弟のように扱いしはじめました。。」私たちの罪を赦し、敵を赦せるようにさせるキリストの福音は、タイにいた何千の連合軍捕虜を素晴しく変えました。

何年か後「連合軍が勝った後、骸骨のようにやせて生きの残った人は、日本軍の前に立ちました。これを強調しました。『憎しみは終わり。殺しは終わり。今必要なのは赦し。』」

犠牲的な愛には人を造り変える力があります。キリストの十字架の犠牲を体験することからはじまります。それは、他人に対する犠牲的な愛に導かれます。この兵隊のように、敵を赦し、愛し、そのために祈られたように。

アーネスト・ゴードン

戦場に架ける橋の本当のストーリーを見て下さい。エンド・オブ・オール・ワーズ (写真)この映画は「カワイの谷を通って」と言う本を元にしています。主イエス・キリストが残酷な収容所を素晴しく変えることが出来るなら、私、あなた、アメリカ、日本、また、我がままなこの世界全てを造り変えることができます。神を期待しましょう。

Monday, September 26, 2011

長崎


金曜日のAM4時、私たちは、高瀬から長崎まで8時間かけて運転しました。ジャシュアの卒業旅行と家族皆の教育旅行でした。ジャシュアは、お城が大好きですから、島原の乱(1637−8)のはじまりの島原城を先ず見ました。キリシタン歴史の展示もありました。<後に『島原の乱は、聖書から見て、正しかったのか?』を考えます。>

Thursday, September 22, 2011

『家庭の土台は夫婦』


能楽金春流太鼓の中堅で、重要無形文化財総合指定をも受けた上田悟さんは、ある時、腕に痛みを覚えました。太鼓を打てませんでした。太鼓方として危機を迎えた時、めぐみさん(妻)から聖書を読むことを勧められました。

初めて聖書を読み、祈りました。心の中に、それまで考えたこともなかった思いがわいて来ました。『自分のがんばりではなく、神様が思うようにしてむらおうと思いました。太鼓にしがみつくのではなく、太鼓を打てなかったら仕方がないと、神さまにゆだねることができて楽になりました。』

やがて腕は治りましたが、今思いば、ひたすら上を目指していたところに、神がストップをかけたかのようなアクシデントでした。「そのまま行っていたら、信仰を得ることもなく、家族を顧みることもなく、破滅していたかもしれません。」

上田さんは、こう言っています。「私の価値観が本当に百八十度変わりました。」『家庭の土台は夫婦』と悟るようになりました。彼は、教会で良い夫婦関係つくりの考える活動をしたい、と言いました。

「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」聖書・エペソ5:25

イエス・キリストは、罪人のために十字架上で「ご自身をささげ」ました。私とあなたのような罪人が受けるべき永遠の罰をその身に負い、十字架上で裁かれました。極めた愛、恵と献身です。値無しで、それを受け入れた者が、その力によって、妻を愛すのです。夫を敬うのです。

2009年1月1日、クリスチャン新聞より

Wednesday, September 21, 2011

老人を敬う


ご存知の通り、9月19日は、敬老の日です。私たちの公民館で老人のためにイベントがありました。

ホサーナ(上)と子ども会は、老人たちのために、校歌を歌いました。

食事の時、子どもたちは、プレゼントをさし上げ、肩を叩きました。上は、ジャシュアです。

その後、シャーンと子どもたちは、一緒にに食べました。

最後に、ジャンカー家を除いて、子供会が太鼓をしました。

日本は、高齢化しています。私が生まれた頃、老人の率はだいたい5%でした。今は、だいたい25%です。ですから、日本の大きなニーズ(必要、課題)の一つは、老人に寄り添う愛とケアです。先進国の大きな『餓え』の一つは孤独である』とマザーテレサは言っています。多くの老人は、孤独です。

日本のキリスト教会が献身的に老人に仕えたいものです。例えば、無料老人ホーム!熊本白川教会<リンク

Tuesday, September 20, 2011

希望を照らす木


前も日本のテレビで見ましたが、最近、外国のmediaでも読みました。"Still standing: tree beacons hope to Japan" RT 「まだ立っている:日本に希望を照らす木」のことです。

3月11日の大地震の大津波で高田松原の松一本だけが残りました。YouTube このように希望を少しでも持てると良いです。が、わらをつかもうとしているようにも感じます。この松の木も枯れたり、虫にくわれたり、津波にもやられる可能性があります。

より確かな希望があるのです。それは、もう一つの木です。イエス・キリストの十字架です。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」聖書・ローマ5:8「この希望は失望に終わることがありません。」ローマ5:5 イエス・キリストとその十字架に希望をおいて下さい。

信じられないような被害にあわれた東北の方にこの揺るがない希望を心からイエスの御名によって祈っています。


Monday, September 19, 2011

運動会


昨日、三豊市の上高瀬小学校で運動会がありました。

ホサーナはかわいらしくこけました。

ジャシュアは皆より少し長く走りました。

シェーンはかっこ良かったです。中間ぐらいに出ています。

Lunch。奈帆のお母さんと妹のリエとkidsが来ました。運動会の後、皆だ高瀬教会で礼拝を持ちました。

Friday, September 16, 2011

「都合の悪い神様」


日本は、何でも便利です。ローソン、サークルケー、自販機、郵便、車、飛行機、携帯、パソコン、カップラーメン、レトルトカレー等等等。マクドナルド、ミスタードーナッツ、よしのや、香川県だったらウドン屋。おいしいですし、便利です。私は、マクドナルド、パソコン、飛行機、郵便ももちろん使っています。しかし、注意しなければ心や、信仰や、神様に関しても、ファストフォード的な考えに成りがちです。あまりにも大事なことで都合良いような答えを持とうとします。
教会に行って、私たちが願うように神様が答えないと、神様に怒ります。大学に入れるように、神社に行って、お金をお賽銭箱に投げ入れ、大学に合格しようとします。お寺で御利益を得ようと祈ります。私たちは、神様を’奴隷化’してしまっています。
自分のために都合良い神様がいなければ、私たちは、自分の思いで、自分の手で、かってに神を作くろうとします。パソコンでカットアンドペースト<切ってはる>するように、自分に便利なら神様を制作しようとます。また、自分にとって都合悪い神様をデリートし、削除します。
日本の神道の神々となると、互いに嫉妬し、約束破り、だまし落とし入れようとしたり、姦通し、殺し合ったりしたのです。ある学者によると神道家はこう言っています。「このように神々がわれわれと同じだから貴い(とうとい)のである。偽りも言い、盗みもし、人殺しもする。そういう神々だから、決して人に向かって、むずかしいことを要求なさらない。だから尊いのだ。」
でも、私は、自分の都合にあわせるような神様なんか尊敬できないし、愛せなし、崇められません。聖書が示している存在する神様を敬愛します。イザヤ6:3「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」真の神様は、いわゆる『都合の悪い神様』です。私たちの都合に合わせるようなお方ではなく、私たちが神様の御意志に合わせなければならないのです。
クリスチャンは、聖書を引用し、真実に『神は愛なり』と言います。しかし、神は、愛だけではありません。神を一元的にとってはなりません。聖なるお方です。私の父は、神の聖さと愛をコインの両面に例えました。一つのコインですが、両面があります。神は、唯一ですが、愛も、聖さも同時にあるのです。
イザヤ6:3「聖なる」は、一回だけではなく、三回も繰り返されてあります。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。」神様は、超越して聖いお方です。神様は、罪をお嫌いになる、罪を裁かれる方です。正しさを喜ぶお方です。神様は、きよいお方です。「神様の聖よさとは、神様が全ての被造物から全く独立して、はるか高くにいると言うことです。道徳的に悪と罪からも同様に離されていることを意味しています。」
この聖なる方は、私たちを創造されました。なのに、私たちは、栄光に満ちている神を無視してきました。私たち人間は、神の永遠の聖い正しい裁きに値する者です。しかし、また、神様は、愛に満ち満ちています。主イエス・キリストは、私たちのような罪人の受けるべき罰を、十字架上で身代わりと成って受けて下さいました。イエスは、神様の聖よい怒りを受けました。主イエスとその十字架を信じ仰ぐ者は、神のあわれみ、愛、恵みの対象となります。また、主イエスは、体を持ってお墓から三日目に甦り、現在全てを治めています。今、恵みをもって顧みて下さいます。あなたは、都合に良い神ではなく、このいわゆる都合の悪い神様、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」を信じ崇めていますか?
ダビデ・ジャンカー
2007年10月3日、四国学院大学、チャペル・メッセージ

Thursday, September 15, 2011

キリストがあなたを照らされる。


眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」聖書・エペソ5:14


Wednesday, September 14, 2011

記念式


先週、9月10日(土)家内の親戚の記念式がありました。

先ず、教会の墓地で骨をおさめました。

次に、家族のお墓に骨がおさめられました。お墓に十字架があり、「野のゆりを見よ」という聖書の言葉が刻んであります。

最後に、教会で記念式を行いました。上:家内がAmazing Grace(アマジング・グレース)を弾き、皆で歌いました。「おどろくばかりの、恵みなりき、この身の汚れを知れる我に。。。御国につく朝、いよよ高く、恵みの御神を讃えまつらん。」とイエス・キリストの不思議な恵みを歌いました。 「神様がキリスト・イエスを通して成してくださった、すべてのことからも、神様の恵みのすばらしさがわかります。」リビングバイブル聖書・エペソ2:7前半

式の後、美味しいお刺身どんぶりを親戚(写:家内の母と子ども)と共に食べました。

Monday, September 12, 2011

苦しむとき、そこにある助け。


オバマ大統領夫妻とブッシ元大統領夫妻が、私の父の故郷ニューヨーク市の9.11の記念式に出席し、オバマ大統領は、聖書・詩篇 46編を読みました。日本語で読んで下さい。<下>


神はわれらの避け所、また力。

苦しむとき、そこにある助け。

それゆえ、われらは恐れない。

たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。

たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、

その水かさが増して山々が揺れ動いても。セラ


川がある。

その流れは、いと高き方の聖なる住まい、

神の都を喜ばせる。

神はそのまなかにいまし、

その都はゆるがない。

神は夜明け前にこれを助けられる。


国々は立ち騒ぎ、

諸方の王国は揺らいだ。

神が御声を発せられると、

地は溶けた。

万軍の主はわれらとともにおられる。

ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ


来て、主のみわざを見よ。

主は地に荒廃をもたらされた。

主は地の果てまでも戦いをやめさせ、

弓をへし折り、

槍を断ち切り、

戦車を火で焼かれた。

「やめよ。

わたしこそ神であることを知れ。

わたしは国々の間であがめられ、

地の上であがめられる。」


万軍の主はわれらとともにおられる。

ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ


英語でYoutubeで聞く。<国家の後にあります。>


私たちは、9月11日、3.11の災難を体験した日本のためにも祈りました。9.11の記念式にある日本の青年が、名前を読んだ後、"pray for Japan"と言いました。


Friday, September 9, 2011

しかし、ここに神様はおられると思った



3.11の東日本大震災のすぐ後、消防士藤村拓さんは「ぜひ、救援活動に行きたい」と願いました。
彼は、岩手県盛岡出身です。家が火事で失った「従兄弟の家族の大変そうな姿を見て、その時、消防士になろうと意識するようになってのです。。。。消防士は24時間体制で、徹夜での作業もあり過酷な仕事ですが、。。。力には自信があったので、僕にはピッタリな仕事だと思いました。。。。消防士は、身の危険も顧みず、人のためにする仕で、神様の愛を伝えやすい仕事だな、と単純にそう思ったのです。。。。絶対、東京に行かないと思っていたけれど、難しい試験が通ったのは、きっと神様が行きなさいと言っているのだろうと考えるようになりました。それで、。。。東京消防庁に行くことに決めました。」
「東京に出て来たのはこのとき(3.11)のためだった」と彼は言います。東北に行って「その光景は言葉にできないほど悲惨で悪夢のようだった」と語りました。「絶対に探し出してみせる」と思いましたが、「その光景はあまりに広すぎて、どこから手をつけていいか分からない状態だった」のです。「自分の力で探し出せなくても、神様はすべてのことを知っておられる。。。。ここに神様はおられる」と感じたのです。「私が活動した隊では、4人の遺体をを収容しました。。。。家族、親族がこの姿を見たらどう思うだろうかと胸が痛みました。本当に何もできないという無力さと切なさを感じました。」でも「ご遺体を家族にお返しすることで、ご遺族のかたがたのための心の痛みが少しでも和らげば」と思って、彼は作業を続けました。
「いずれは盛岡に戻って、そこで消防士の仕事をしたい」と故郷に対する彼の思いが強まりました。
5月1日発行クリスチャン新聞より

続けて福島県、宮城県と岩手県のために祈って下さい。また、義援金を捧げて下さい。さらに、援助活動をしているグループを通して東北に行って下さい。被災者たちは、人格的な愛が必要です。
イエス・キリストは、宇宙を創られた神です。が、イエス・キリストは『人となられた』とあります。「ことば(イエス・キリスト)は人となって、私たちの間に住まわれた。」聖書・ヨハネ1:14 それは、私たちを罪と滅びから救うために来たのです。今も、私たちに寄り添って下さる素晴らしいお方です。このイエス・キリストの人格的な愛を体験した私たちは、その人格的な愛を示したいものです。

<写:家内が東松島市に行ってボランテイアしていたときとった>

Wednesday, September 7, 2011

野のゆり



だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。

なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

イエス・キリスト、聖書・マタイ6:25−34

ビデオ:このユリは、8月仁淀川でキャンプしたとき、テント近くに咲いてました。


Tuesday, September 6, 2011

「聖書と福音」


昨日のNHKニュースで、東北で仕えている西沢医師が「被災者は、生きがいを失っている。生きがいずくりをする必要がある」と語っていました。三浦綾子は、聖書のエッセンスは福音である、と光あるうちにに書きました。ここに真の生きがいがあるのです。

聖書ではこう書いてあります。「。。。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。。。。私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパ(弟子、ペテロ)に現れ、それから十二弟子に現れたことです。」使徒パウロ、1コリント15:1−5 福音は、主に、イエス・キリストの十字架と復活です。イエスは、十字架上で罪人の受けるべき永遠の罰を身代わりとなって受けて、十字架は、神の極めた愛を表しています。イエスは、復活を通して死に打ち勝ち、今、天において信じる者の為に祈り、顧みて下さるのです。イエス・キリストとその福音、この極めた愛、が私たちに真の生きがいを与えるのです。

ラジオ番組「聖書と福音」でこの福音を分かりやすく説明し、インタネットを通しても常に聞けます。CLICK HERE<ここクリック>『聖書&福音』

Monday, September 5, 2011

ホサーナと"Papa Time"


昨晩、シェーンと一緒に近くの高瀬温泉に行きました。数週間前、ジャシュアと地元と麻城に行きました。Papa Time! 上の写真、この前、ホサーナと時を過ごしました。ホサーナは、20くらいの距離にある、マクドナルドを選びました。まだ三豊市にはマクドナルドがありません。

Saturday, September 3, 2011

「神様の恵みを日に日に感じた」


東北のボラテアの報告:

私は、第5陣ボランテイアに参加させていただきました。行く3日前に車の運転を頼まれてから、急にいろいろな心配が出てきました。“車で事故したらどうしよう”“留守中、キャンプに行く子供と夫は大丈夫だろうか”“熱中症になってみんなに迷惑をかけたら。。”など。しかし、今回のボランテイアは、始めから終わりまで、神様の恵みを日に日に感じた旅となりました。

私達のチームは、宮城県の東松島に遣わされました。活動した地域は、海から離れており、一瞬、それほど被害がないように見えました。しかし、1つ1つの家を見ると、まるで何十年も放置されたゴミの家のようで、草も生い茂っていました。こんな所まで津波が!という状況でした。

私達は、ある方の庭の清掃をし、家の中の物を全部外に出し、泥をかぶった壁の取り壊し作業をしました。1度津波がかぶさると、泥が壁の中まで入り、床も壁も取り壊さなければいけません。取り出した断熱材の中にも水が溜まっている物がありました。

1日目の終わりに彼女が来られ、ボランテイアの働きに感謝して下さり、いろいろと胸の内を語って下さいました。彼女のお母さんは、津波で亡くなり、彼女自身もあと少しのところで流されるところでした。弟家族は流されましたが、奇跡的に助かりました。当日は、ご主人、結婚されている娘さんと連絡がつかず、1人で夜を過ごされたということです。多くの友人も亡くされました。私達は一緒に祈ることができ、彼女は涙を流されました。

メンバーの素敵な心遣いで2日目に花を3日目には手紙を持って行くことができました。この短い3日の間に、彼女と良い関係を築けたことが本当に感謝でした。最終日も一緒に祈り、彼女は涙を流しました。そして、“苦しい時にあなた達を思い出します”と言って下さいました。最後に、リーダーの直子先生、 “私達はもう帰ります。でも私達の信じる神様が一緒にいて下さいますから”と伝え、聖書の言葉も渡すことができました。“1年後には、この家で一緒にお茶を飲めたらいいですね”と言い合い写真を撮り、ハグし、そして別れました。

彼女のお宅は、住むには1年はかかります。まだまだ山のような必要に対して、ボランテイアが少ないということを聞きましたし、自分たちにできることは、本当に僅かなことだと思いました。しかし、今回の活動が、被災者の必要を少しでも担えたこと、またそれだけでなく心の慰めにもなったことを感じ、自分自身も励まされました。

旅のメンバーにも感謝します。一緒に活動できて楽しかったです。みんな本当に良くやりました。“行っておいで”と快く送り出してくれた夫にも。そして神様に感謝します。 

ジャンカー奈帆(家内)

Thursday, September 1, 2011

「だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」


「キリスト教は、常に乗り超えている。しかし、常に攻撃されて来た。キリストはある人にとって隠れ場であり、おる人にとって躓き(つまづき)。」ブレーズ・パスカル 

徳川時代の将軍は、キリスト教を異国のもの、国体を裏切るものとして見て、踏みつぶしました。1600年代から、何万人のキリスト者は、殺されて来ました。

しかし、今は、本当の開国するときが来ました。明治維新がありましたが、平成維新が必要とされています。

「だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」イエス・キリスト、聖書・マタイ11:6