Friday, February 26, 2010

イエス・キリストを通してのみ。。。


"Not only do we know God by Jesus Christ alone, but we know ourselves only by Jesus Christ. We know life and death only through Jesus Christ. Apart from Jesus Christ, we do not know what is our life, nor our death, nor God, nor ourselves." Blaise Pascal

「イエス・キリストを通してのみ神を知るだけではなく、イエス・キリストを通してのみ自分を知る。イエス・キリストを通してのみ生と死を知る。イエス・キリストを除いて、私たちは、自分の生、自分の死、神、と自分自身は何なのかを知ることはだきない。」ブレーズ・パスカル

Thursday, February 25, 2010

神の愛 (3)


2010.2.14、高瀬キリスト教会 
1コリント13

浜島敏師

しかし、愛の大きさは、そのために払うことの出来る犠牲の大きさに比例するのではないでしょうか。愛する人のためには犠牲を厭わない。一番純粋な愛は親の愛だと良く言われます。親は子供のためには犠牲を払うことも厭わない。自分の食事を減らしてでも子供に食べさせることが出来るのです。自分の健康を犠牲にし、臓器を提供することもできる。ところで、一番大きな犠牲とは何でしょうか。それは命です。友のために命を捨てる、それより大きな愛はない。とイエス様は教えられました。ヨハネ1513 



一つの感動的な実話があります。ある裁判官が一人の重罪人を裁いたことがありました。犯罪人が審判台に立って裁判官を見ると、それは自分の双子の兄でした。裁判官も、自分の弟が犯人であることに気づきました。犯人は心から赦されることを兄に懇願しました。ところが、裁判官の兄は厳しく罪を裁き、すぐに彼を投獄するように命令しました。そして翌朝には、彼は死刑にされることになったのです。ところが、夜中に急に裁判官が制服のままで、獄にやって来て、その犯人である弟に驚くべきことを言ったのです。「私は裁判官である以上、法律に違反することはできないので、お前を罪に定めた。今、私がここに来たのは、兄としてお前を救いに来たのだ。急いで、お前の服と私の制服とを取り替えて、ここから出て行きなさい。門にいる看守はお前を出してくれるだろう。お前は、遠方に行って、心を入れ替えて新しい生活をしなさい。二度とこのような罪を犯してはいけない。さあ、早く行きなさい!」そして、その裁判官は翌朝、弟の身代わりになって死刑を執行されたのであります。今ではそんなことはないでしょうが、実際に起こったようです。そして、その二日の後、このことが全市に知れ渡り、人々の大きな感動を呼んだということです。 



実は、神様がしてくださったのは、ちょうどこういうことなのです。人間は罪を犯しています。人間は神様の言いつけを守らない、言わば神様の敵でした。罪など無いと言う人もいます。確かに、法律で裁かれるような罪は犯していないかも知れない。しかし、胸に手を当ててよく考えてみてください。自分の今までの行いが、その思いまで含めて全部記録されていたとします。それが再生されて見せられたら、楽しんで見られるでしょうか。止めてくれと叫びたくなるのではないでしょうか。エンマさんは、エンマ帳に私たちの行った悪い行いを全部記録しているそうです。しかし、神様の記録はもっとすごい。神様のビデオはもと性能がいい、行いだけでなく、心で考えたことも全部記録されている。とても人には見せられないし、自分も見るに堪えない。そんなのが人間です。しかし、神様はそんな罪人を愛してくださって、死刑にしたくない。何とか救う方法はないかと考えられ、自分の一番大事な息子を身代わりに死刑にすることでした。そして、その息子こそイエス様であり、その死刑が十字架でした。人間が神様のもとにいけるため、即ち天国に招くためです。神様に逆らっている人間は、もともと天国などには行けないたのです。しかし、その道を開くために、イエス様をこの地上に送ってくださった。イエス様はたくさんの素晴らしい教えをしました。でもそれだけだったら、他の人にも出来たかも知れない。それが最終目的ではなかった。あなたのために死刑を甘んじて受けること、それが目的でした。人間と神様とが和解するためです。最も大きな愛。友のためどころか、敵のためにさえ、自分を犠牲にされたのです。十字架で苦しんでいるイエス様を見上げてください。本当は私がかからなければならない十字架だったのです。しかし、神様は犠牲を惜しまなかった。人を愛しておられるからです。その愛に答えようではありませんか。どうしたら良いですか。別に何もする必要はありません。感謝をして、「罪人の私を許してください」。それで十分です。あなたもその変わることのない素晴らしい愛を手にすることが出来るのです。「われわれが神の敵であった時でさえ、御子の死によって、われわれを御自身と和解させて下さった」のです。(ローマ510

神様の祝福がありますように。




神の愛 (2)


2010.2.14、高瀬キリスト教会 
1コリント13

浜島敏師

しかし、そんなにみんなが欲しがっているのに、なかなか本当の愛というものは手に入りません。また、愛だと思って捕まえてみると、それがまがい物だったりするのです。幸福にも似ています。みんなが幸福を求めています。求めているのに、なかなか見つけられない。チルチルとミチルの兄妹は「幸福の青い鳥」を探して回りました。そして、青い鳥がいたと思って捕まえた途端、色が変わって、青い鳥ではなくなってしまいました。ある詩人の詩に、「山のあなた」というのがあります。ある人から「幸福」は山の向こうにあるよと教えてもらって、苦労して向こうの山まで行ってみました。しかし、幸福は見つからず、涙ながらに帰ってくると、その人は「幸福は山のもっと向こうだよ」と教えられたというのです。なかなか手に入れるのが難しいものです。虹と似ているかも知れません。綺麗な虹がすぐ隣の家の屋根から出ているように見えることがあります。虹の端を確かめようと飛んで行くと、虹はそのまた隣の家の屋根から出ているのに気づいてがっかりするのです。そんな経験はないでしょうか。 



愛する人に裏切られたから愛などない方が良い、という人は、その本当の愛をまだ知らないからです。愛もなかなか手に入らないので、愛などもう要らない。お金があればいいという人がいるかもしれません。また快楽を求めたりする人もいるでしょう。飲め、食え、楽しめと。しかし、お金では愛は変えませんし、快楽も長く続くことはありません。むしろ後は空しくなるのです。聖書に次のような言葉があります。今から3000年ほど前、最も知恵があり、最も豪華な生活をし、贅沢の限りを尽くしたソロモンという王様がいましたが、彼は聖書の中で次のように言っています「たとい全財産をはたいても、愛を買うことはできません」(雅歌87)と。また、彼はあらゆる快楽を経験しましたが、晩年になってそれを振り返って、「空、全部空で無意味だ」(伝道12)とも言っています。愛は何ものにも変えられないものなのです。 



では、そんなに大切なのに、手に入りにくい愛とは一体何でしょうか。愛を見せてくださいと言われたら、見せられますか。残念ながら愛は見えません。が、考えてみると、私たちは目に見えるものばかり追いかけていて、実はもっと大切な目に見えないものがあるのに、それに気づかないか、気づいてもそれを無視しているのではないでしょうか。私たちは目に見える「一時的なもの」ではなく、目には見えないけれども、むしろ「永遠に至る」ものに目を留めるべきです(2コリント418)と聖書は忠告します。 



愛にも実は一時的な愛と永遠に続く愛があります。よく、教会では愛には3種類とか4種類あると言われますが、そのことは今日はお話できません。ユダヤ人の知恵であるミシュナーという本では、愛を二つに分けています。「何かに依存している愛は、そのものが無効になれば、愛も無効になる。しかし、何にも依存しない愛は、永遠に無効にならない。」と言っています。他人に頼る愛、これは一時的です。結局はこの愛は裏を返せば、見返りを求める愛、自己愛の変形でしかありません。無償の愛こそ永遠に続く本当の愛なのです。しかし、人は何ものにも依存しないではいきて行けません。ですから、実は何に依存するかが大切だといえます。もともと変わらないものに依存していれば、その愛は不変です。あの人こそはと思っていても、裏切られるのです。人とか物に頼るのは愚かなことです。鼻から息をする者に頼ってはなりません。変わらない神に依存してこそ変わらない愛が持てるのです。 



愛は見えませんが、愛の働きは見えます。電気と同じです。電気を見た人いますか。電気も実は見えませんが、その働きは見える。熱になったり、光になったり、力になったりして、私たちにその恵みを与えてくれます。愛もその働きによって分かります。愛そのものは見えませんが、その働きは見えます。お父さんが働き、お母さんが食事を作るのも家族を愛しているからです。 



では、愛はどのような働きをするでしょうか。1コリント13章は愛がどんな働きをするか教えてくれます。愛は優しくて、親切です。反対に自慢したり、威張ったり、すぐに怒ったりしないし、自分さえ除ければ良いなどとも思いません。人と仲よくできます。喧嘩をしません。喧嘩をするのは愛のない証拠です。愛があると憎らしいと思っていた相手と仲直りをし、彼を許すことが出来ます。

実はジャンカー先生のお父さんは、フィリピンで日本兵と闘い、日本人が大嫌いでした。しかし、イエス様の愛を知って、日本人を愛することが出来るようになり、その素晴らしい愛を日本人に伝えるために日本にやって来たのです。そんな人を私は何人も知っています。特に良く知っているのがイギリス人のスティーヴン・メトカーフという先生です。彼は中国にいた時に日本軍に迫害され、収容所で苦しい生活をさせられました。が、その時エリック・リデルという人から「敵を愛しなさい」という言葉を聞いて、それで戦争が終わった後、日本に宣教師として来て人々に神様の愛、平和と和解のメッセージを伝えました。憎みあっていた人たちが、神様の愛によって和解を得たのです。和解も愛の働きの一つです。

<つづく>

神の愛 (1)


2010.2.14、高瀬キリスト教会 
1コリント13

浜島敏師

聖書・1コリント 13章 「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。 愛は決して絶えることがありません。

こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」



今日は214日ですね。214日といえば何の日でしょうか。バレンタインデーです。ところでバレンタインデーというのは、どんな日ですか。女の人が好きな男の人にチョコレートを渡す日になっていますね。これは、実は日本や韓国、そして台湾などの習慣であって、ヨーロッパなどではちょっと習慣が違っています。それを今日お話する時間はありませんが、バレンタインってなんでしょうか。 



今から1750年ほど前のことです。ローマの法律では兵隊さんの結婚を禁止していました。結婚すると奥さんのほうが大事になってしまって、あまり真剣に戦争をしなくなってしまうからです。それで、バレンタインというキリスト教のお坊さんが、愛しあっている人が結婚できないのは不幸だと思って、秘密に結婚させていました。それが分かってしまって、269214日に彼は処刑されてしまいました。それ以後、愛しあう人たちは、バレンタインが殉教した214日を大切な日とするようになったということです。男でも女でも愛する人に手紙とちょっとした贈り物をするのが習慣になりました。それが日本に伝わって、女の人が男の人にチョコレートを上げる日になったというわけです。 



こういう話もあります。司祭として家の庭にある楓の葉に愛のことばを自分の教会の信徒あてに送り続けたため、それに倣って、愛のメッセージをみんなが送るようになったということです。 



「愛」にちなんだ日がこのようにお祝いされるのは、みんなが「愛」を求めている、愛して欲しいということの現れではないでしょうか。「愛」に飢えていると言えるかも知れません。愛がないために犯罪に走ったり、自殺する人さえあります。人は愛がないと生きて行かれないということでしょう。愛する人に裏切られて、もう愛など要らない、金があれば全てだという人もいます。しかし、私にはそれが本音だとは思いません。それは強がりを言っているだけか、あるいはごまかしているに過ぎないと思います。「たとい野菜しかなくても、互いに愛する方が、ごちそうを食べながら、憎みあっているよりはましだ」(箴言1517)と聖書も言っています。また、どんな知識があっても、どんな学問があっても、どんなお金があっても、どんなに強い信仰があっても、「愛」がなければ、無意味だと聖書は語るのです。(1コリント13

<つづく>

Wednesday, February 24, 2010

『旅』6


2週間の飛行機や車に乗ったりした後、12月21日、家族がいる<Canadaの国境の近くの>Petsokey, MIにやっとつきました。

子供たちは、こんなに雪を見たことが無かったのです。

私にとって一番楽しかったのは、父とともに老人ホームを尋ねて、簡単なキリストのメッセージを語ることでした。

トリニテー教会で、親戚や家族とともにクリスマス・イブ礼拝を楽しみました。

クリスマスの日にプレゼントを開けるのは楽しかったです。上は、家内の奈帆です。

27日(日)またトリニテー教会で礼拝しました。私たちの子供は、聖書を教える叔母ちゃんのクラスに参加しました。

*Petoskeyの写真がまだ残っています。期待してください。

Tuesday, February 23, 2010

疲れている現代人へ


「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」主イエス・キリスト  聖書・マタイの福音書 十一章28節~29節


Friday, February 19, 2010

かわいい "Amazing Grace."


Amazing GraceはZoeiちゃんの大好きな賛美歌です。2007年7月7日に録画されました。ここをCLICK:Amazing Grace by 2-year Old(youtube)。楽しんで下さい。


Amazing Grace アメージング グレース (訳)

Amazing grace how sweet the sound, That saved a wretch like me. I once was lost but now am found, Was blind but now I see.
何と美しい響きであろうか、私のようなあわれな者までも救ってくださる。道を踏み外しさまよっていた私を、イエス・キリストは救い上げてくださり、今まで見えなかったキリストの恵みを、今は見出すことができる。

'Twas grace that taught my heart to fear, And grace my fears relieved, How precious did that grace appear, The hour I first believed.
キリストの恵みこそが私の恐れる心を諭し、その恐れから私の心を解き放つ。キリストを信じる事を始めたその時の、キリストの恵みのなんと尊いことか。

Through many dangers, toils and snares、I have already come. 'Tis grace hath brought me safe thus far, And grace will lead me home.
これまで数多くの危機や苦しみ誘惑があったが、私を救い導きたもうたのは、他でもないキリストの恵みであった。

The Lord has promised good to me, His Word my hope secures; He will my shield and portion be, As long as life endures.
主イエス・キリストは私に約束された、主の御言葉(聖書)は私の望みとなり、主は私の盾となり 私の一部となった、命の続く限り。

Yes,when this heart and flesh shall fail, And mortal life shall cease, I shall possess within the vail, A life of joy and peace. 
そうだこの心と体が朽ち果て、そして限りある命が止むとき、私はベール(死)に包まれ、喜びと安らぎの命を手に入れるのだ。

The earth shall soon dissolve like snow, The sun forbear to shine; But God, who called here below, Will be forever mine.
やがて大地が雪のように解け(天と地が滅びゆき)、太陽が輝くのをやめても、私を(選び)召された神は、永遠に私のものだ。

When we've been there ten thousand years, Bright shining as the sun, We've no less days to sing God's praise、 Than when we'd first begun.
何万年経とうとも、太陽のように光り輝き、最初に歌い始めたとき以上に、神を歌い讃え続けることだろう。

*この歌は、多くの場合、イエス・キリストをぬきにして歌われるときがあります。ジョン・ニュートン(作詞)が語って恵みは「イエス・キリストとその十字架」による恵みです。彼は晩年の頃、このように語りました。「私の記憶は薄らいできましたが、私は二つのことをはっきり覚えています。私は大きな罪人であり、キリストは偉大な救い主であります。」(英:"Although my memory's fading, I remember two things very clearly: I am a great sinner and Christ is a great Savior." )

Thursday, February 18, 2010

バレンタイン・デー礼拝


2月14日のバレンタイン・デーの礼拝は良かったです。写真を楽しんで下さい。

家内の奈帆がコーヒーの注文を受ける。

イースターさんがロデニーにコーヒーを配る。

浜島先生は、キリストの愛について良いメッセージをして下さいました。

アメリカ、フィリピンともちろん日本からの方が来て下さいました。バプテスト系、カリスマ系、カトリック系、&長老教会系のクリスチャンが来ました。何か天国のような気がしました。

Tuesday, February 16, 2010

ジャージ・ワシントン


"It is impossible to account for the creation of the universe without the agency of a Supreme Being." George Washington

(Supreme Being: 最高の存在)の摂理なしではこの宇宙の創造は考えられない(impossible to account for: 考慮に入れることは不可能)。」ジョージ・ワシントン大統領


Friday, February 12, 2010

’希望のない時代’


私は、いくつかのNHKのクローズアップ現代で希望についての放送をみました。

‘希望のない時代‘とも言われています。『勝ち負け』の社会の中で、あまり多くの方は、仕事がないのです。ある方は、「助けて」と言えない、弱さを言えない、自尊心がない、自分を受け入れられない方がいるのです。残念ながらある方は、ホームレスになったり、ある方は孤独の中で死ぬのです。

それに対して、番組でこうアドバイスしていました。自分の弱さを受け入れ、自分を好きになることが大事だと言っていました。外からケアとインプットを求めることを解決策の一つと言っていました。「助けて」と言える社会を作り上げる重要性を語っていました。

考えさせられます。参考になると思います。はたして本当にこれで十分でしょうか?

もう一つのNHKのクローズアップ現代で‘希望学’について放送しました。

『“希望”を科学する
希望学という新しい学問が注目を集めています。東大の社会科学研究所を中心に、経済学、歴史学など40人をこえる研究者が参加し、大規模な調査などを行い、「希望とは何か」を科学的に読み解こうという一大プロジェクトだそうです。』社会に失望を感じ、その答えを見出そうとしています。

先ず、希望学の研究で分かったのは、多くの富があっても、希望にはつながらないと分かりました。聖書の通りに、多くの財産があっても、希望があるのではないのです。

しかし『プロジェクトが注目したのが岩手県釜石市でした。かつては「製鉄の町」として栄えた企業城下町でしたが、今から20年前、製鉄業の規模縮小という危機を経験した町です。希望学では、この釜石を日本の未来像と位置づけ、大規模な現地調査を行ってきました。』

釜石市では、何を発見したのでしょうか?強い繋がりだけではなく、“weak ties (弱いつながり)でも役割を大事に果たすと研究で分かったそうです。”Weak ties”を通しても事業のためにアイデア(idea)やひらめきが出るそうです。

また、“small is OK”と言っていました。小さな町でも、あるイギリスの町のように、‘コンパクト・シテー’(compact city: こじんまりした町)を造れると研究者が発見しました。

そして、「風を起す」必要性を強調していました。今までやって来たことで良いのか?と疑問に思い、掻き回すのも大事だと言っていました。

ある方は、こう言っていました。3人に自分のアドベンチャー、試み、挑戦を理解してもらえる人が変ったことでも、危険なことでも出来る。

繋がりも大事だし、小さなものもOKだし、「風を起す」ことも良いし、良き理解者は必要です。しかし、心の奥底に本当の希望を与えるのでしょうか?人間は、より深いところに希望を求めているのではないのでしょうか?

研究者は、さらにこう語りました。自分のストーリー(story: 物語)が必要だと言っていました。挫折をする時、自分の体験したストーリーを語り、希望を持つことが出来るのだと、言っていました。

私は、この研究者は、大事な要素を発見したと思います。クリスチャンにとって、聖書のイエス・キリストのストーリーが自分のストーリーと成ると、この上もない希望が湧き出ます。

聖書のはじめの言葉に素晴らしい希望があるのです。「はじめに神が天と地を創造した。」聖書・創世記1:1 心の奥底の希望を頼りない自分や、人間や、物に置くと失望します。しかし、真の神は、私たちの心の奥底にある渇きを潤して下さる希望の神です。究極的に期待するに値するのは神唯一であります。

自分を含めて人間は、心の叫びを癒す力は、自らはないのです。財産、名誉、教育、仕事、ももちろんそうです。これらは神でないから弱い、壊れやすい、足りないものです。


人間は、神を愛し、隣人を愛するよりも、自分自身を愛し、物を愛します。個人の心に平安がないし、世界や社会をよく見ると平和が見当たらないのです。人間の自己満足の為に自然まで乱れています。戦争、飢餓、貧困、不正、差別、憎しみ、空しさ、失望、病気と死が人間の罪の悲惨な結果です。確かに、希望のない世の中です。ですから、“希望のない時代”であり、希望学という研究がされているのです。

しかし、聖書によると、希望があるのです。神は、迷い失われた私達を求めると、お定めになったのです。神は、イエス・キリストと言うお方を通して、私たちの歴史に入って来られたのです。イエスは、神と私達の間の愛の関係を、また人間と人間との愛の関係を、癒し直すために来たのです。希望を与える為に来たのです。

聖書・ローマ5:5−8 「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、 私たちに与えられる聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」このイエスの犠牲的な十字架の死によって、神との和解、人との和解をはじめられたのです。イエスは私達の罪を赦すために死なれたのです。

イエス・キリストの死人の中からの復活によって、御自身は‘主の主’である事を証明されたのです。復活を通して、将来・未来の希望を約束されたのです。 

新しい体を下さるのです。古い天と地を滅ぼし、新しい天と地を造って下さいます。完全な喜び、正義、平和と栄光の世界を設けて下さいます。

神と和解するために、私達は、自分の頼りない行いでは無く、イエスの十字架の行いによって活かされるのです。私達は、信仰によって活きるのです。このような恵みによって、私達は、全く新しい人となります。イエスの力強い癒しが私達の内に、また私たちを通して働きはじめるのです。

イエスは、その生涯と十字架によって、どのように人生を送るべきかの愛の模範を立てて下さいました。‘希望のない時代‘に、主イエス・キリストによる希望が、神の恵みによって、社会に広がって行くのです。 


私は、あなたの為にこう祈ります。聖書・ローマ15:13 「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」


DVD ザ・ホープ THE HOPE(希望) すべての人に約束された神の物語 天地創造からイエス・キリストまで80分で聖書の世界をタイムトリップ!


世界のベストセラーと言われている聖書。この書物は全て違う人生を歩んできた40人を超える人々によって、1500年もの時間をかけて書かれてきました。しかしそれら全ての著者たちは、まるで見えない手によって導かれたかのように、一人の驚くべき人物イエス・キリストに結び合わされています。世界の数多くの映画監督や配給会社の協力のもとに制作されたこの作品は、多くの人々が今まで聞いた聖書のことを、力強くそしてドラマチックに解説してくれるでしょう。<¥1,260>


Tuesday, February 9, 2010

Valentine’s Day


バレンタインデー(Valentine’s Day)のチョコレートの贈る習慣は、19世紀後半のイギリスではじまったとされています。キャドバリー社の社長リチャード・キャドバリーが1868年に美しい絵のついた贈答用のチョコレートボックス発売しました。バレンタインデーが日本に定着したのは、1970年代後半でありました。

バレンタインデーのルーツは、クリスマスと似てキリスト教と関係あります。ウァレンティヌス(Valentinus)、あるいはヴァレンタイン (Valentine) は、3世紀頃のキリスト教の聖職者で、現在も、多くの教会で聖人とされています。カトリック教会では1969年までは2月14日を聖ヴァレンタインの殉教の日としていましたが、これが基になってバレンタインデーが定着しました。聖ヴァレンタインが死刑にされ日に牢屋の看守の娘に最後の恋文を渡したことから、彼が“恋人の聖人”とされて来ました。ここにも、バレンタインデーのルーツがあると言われています。

Valentine's Day Worship!

2月14日(日)午後4時〜5時、高瀬キリスト教会でコーヒー<*>を飲みながら、チョコレートをつまみながら、愛の神を讃え、学びませんか?浜島びん師が分かりやすい話を用意して下さいます。誰でもお気軽にどうぞ。<*>子供のためにもホット・チョコレートを用意します。

ハイチ大地震のために募金されたい方は、ぜひこの愛の日に高瀬キリスト教会でどうぞ募金をして下さい。

Valp4

お知らせ:世界中に神の祝福を届けたい!
Click here > http://www.gospeltv.jp/gby/


Sunday, February 7, 2010

明日のことが心配ですか? 


空の鳥を見なさい。種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなた方の天の父がこれを養ってくださるのです。

あなた方のうちの誰が、心配したからと言って、自分のいのちを少しでも伸ばすことができますか?野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。

あなたがたの天の父は、あなたがたの必要を知っておられます。神の義を第一に求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて与えられます。

明日のための心配は無用です。明日のことは明日が心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

イエス・キリスト

聖書・マタイの福音書 六章26節~30節


Thursday, February 4, 2010

宇宙は創り主の存在を表す


”As a house implies a builder, and a garment a weaver, and a door a carpenter, so does the existence of the Universe imply a Creator.'

家は建設者を表す(implies: 意味する、含む、示す)ように、衣服は編む人、戸は大工、宇宙は創り主の存在を表します。

「初めに、神が天と地を創造した。」聖書・創世記 1:1


Tuesday, February 2, 2010

『旅』5


私たちは、Waterford, MI に帰りました。ここが母の生まれた故郷です。私の本当の故郷は、長野県、松本市ですが、アメリカではWaterfordです。

12月18日、私たちは、Moviusさん達に会いました。彼らは、多く祈って下さいます。

その後、Gibsonさん達の家でお昼を食べました。5年前、彼らの家に2週間も止まりました。医者でもある旦那さんは、私たちの子供の治療を無料でして下さいました。また、奥さんは、奈帆をCostcoに連れて行って、買い物を全て払って下さいました。

19日、奈帆は、Great Lakes Mallで買い物を楽しみ、後で私たちは、乗り物を楽しみました。

Johnsさん達(上、右)と共にWaterford Churchで'Walk Through Bethlehem'を楽しみました。その後、彼らと共にステーキを味わいました。

20日、Marimont ChurchでTerbushさん達と共に礼拝をしました。その教会で大人の聖書クラスで日本の話をしました。

また、親戚のPowellさん達と特別な時を持ちました。Uncle Ernie & Aunt Ann (上)、Susie & Sean, またPattie, Todd & family. 過去、Powellさん達は、私を快く3年ぐらい家に止まらせて下さいました。