Tuesday, June 30, 2009

信仰


「信仰は、お互いに矛盾していると思えるようないろんな心理を抱くことである。」ブレーズ・パスカル

"Faith embraces many truths which seem to contradict each other." Blaise Pascal

* My comment:  人間の次元からものごとを見ると限度がるので信仰に矛盾があるように見えますが、聖書 (創り主の次元) から見ると、全てが調和されるのです。信仰とは、創り主 (聖書)の角度からものごとを見る、とも言っても良いでしょう。

道・真理・命


「イエスは彼に言われた。『私が道であり、真理であり、いのちなのです。私を通してでなければ、誰一人父の御元に来ることはありません。』」聖書・ヨハネ14:6

Thursday, June 25, 2009

雪の札幌の街角で聞いた説教


実際の出来事ですが、明治42年2月28日、北海道塩狩峠で列車が線路から外れる時に、若い命を投げうって乗客の命を救った一人のキリスト信者がいました。三浦綾子は、その人物を小説「塩狩峠」の主人公、長野政雄、にしました。長野は、雪の札幌の街角で聞いた説教によって、大きく影響されます。人生が変ります。そのメッセージは次ぎのとおりです。

「人間という者は、一体どんなものでありますか。先ず人間とは、自分を誰よりもかわいいと思う者であります。しかし皆さん、真に自分がかわいいということは、どんなことでありましょうか。真に自分がかわいいとは、おのれの醜さを憎むことであります。

しかし、我々は自分の醜さを認めたくない者であります。例えば、つまみ食いはいやしいとされておりましても、自分がする分にはいやしいとは思わない。人の陰口を言うことは、男らしくないことだと知りながらも、おのれの言う悪口は正義の然(しか)らしむるところだと思うのであります。俗に泥棒にも三分の理という諺があるではありませんか。人の物を盗んでおきながら、何の申しひらくところがありましょう。しかし泥棒には泥棒の言い分があるのです。
みなさん、しかし、私は、たった一人、世にもばかな男を知っております。その男はイエス・キリストであります。
イエス・キリストは何ひとつ悪いことをなさらなかった。生まれつきの盲目をなおし、足なえをなおし、そして人々に、ほんとうの愛を教えたのであります。ほんとうの愛とはどんなものか、皆さんおわかりですか。ほんとうの愛とは、自分の最も大事なものを、人にやってしまうことであります。最も大事なものとは何でありますか。命でありませんか。このイエス・キリストは、大事なその命を我々に下さったのであります。彼は決して罪を犯さなかった。我々は自分が悪いことをしながら、自分は悪くないと言う者でありますのに、何ひとつ悪いことをしなかったイエス・キリストは、いや善いことばかりをしたイエスはこの世のすべての罪を背負って、十字架にかかられたのであります。彼は、自分に罪はないと言って、逃げることはできた筈(はず)でありましす。しかし、彼はそれをしなかった。悪くない者が、悪い者の罪を背負う。悪くないと言って逃げる。ここにハッキリと、神の子の姿と、罪人の姿があるのであります。
しかし皆さん、十字架につけられた時、イエス・キリストは自分を十字架につけた者のために、かく祈り給(たも)うたのであります。<父よ(神よの意)、彼らを許し給え。そのなす所を知らざればなり>
皆さん。今、自分を刺し殺す者のために、人間は祈り得るものでしょうか。イエスは許し給えと祈ったのであります。これこそ神の人格を所有する方であると、わたしは思うのであります。」

聖書・ローマ5:6−8「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」


長野は、いずれ信仰を持ち、告白し、洗礼を受けるようになります。また、自分のために命を捧げたお方、イエス・キリスト、のように、彼は、人の命を救うために命を捧げます。愛が愛を生み出したのです。

先ず、私達に必要なのは信仰です。三浦綾子はこう書きます。「今まで、どんなに罪深い生活をしてきた人でも、自分勝手な人でも、手のつけられぬ人間と思われている人でも、自分自身に愛想つきた人でも、そのままでいい。罪深いままでいい。聖書にあるとおり、キリストは我々罪人を救うためにこの世に来られたのだ。ああ、私が悪かった、おゆるしくださいと言う人を、神は喜んで迎えようとしておられるのだ。だまされたと思って、あなたもイエス・キリストの神を信じてください。全く別の人生があなたの行く手に待っていることを、わたしは断言してはばからないのです。」

Thursday, June 4, 2009

空の空 (4)


「伝道者である私は、エルサレムでイスラエルの王であった。私は、この地上で行われることをすべて、知恵を用いて、一生懸命に探求してみた。すると、わかったことは、それは神が人間に与えた辛い任務である。私は、この地上で行われていることをすべて、調べてみたが、全く風を追うようなもので、無意味だということがわかった。曲がっているものを、まっすぐにはできない。なくなっているものを、数えることはできない。私は、こう思っていた。『私は、エルサレムにいるだれよりも知恵と知識を得た。さらに、私は一心になって知恵と知識、および、その反面の狂気と愚かさを知ろうとして探求してみた。』しかし、これもまた無意味だと言うことがわかった。知恵が増えれば、悩みも増え、知識を増せば悲しみも増す。」聖書・伝道者の書1:12−18

神様は、私と奈帆に3人の可愛い子供を授けて下さいました。でも一つ、とても気になることがあります。子供の教育です。特に中高生のころの教育です。知り合いの子供の部活動やテストの苦労を聞くと、’ぞっと’します。受験地獄とも言うでしょう。教育的「強者生存」のように感じます。

伝道者によるとソロモン王は、「知恵を。。。一心に尋ね、探り出そうとした。。。 だれよりも知恵を増し加えた。。。多くの知恵と知識を得た。。。一心に知恵と知識を狂気と愚かさを知ろうとした。」ソロモン王は、熱心に知識や、知恵を極めようとしました。


しかし、ソロモン王は、これを喜びではなく、「労苦」、「辛い仕事」、「空しい」、「風を追うようなもの」(2回)であると言っています。最後にこうまとめてあります。「実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。」知識や、知恵を本当に極めると、このように実感するのです。実に空しいのです。



ベスト・セラー"心の知能”(Emotional Intelligence)でダニエル・コールマンは、こう書いています。「IQがどんなに高くても、それは幸運、名誉や人生の幸せを保証させない。」(A high IQ is no guarantee of prosperity, prestige, or happiness of life.) 逆に、牧師D.マーテン・ロイドジョンズは、人類が教育のレベルを上げるたびに犯罪が増えて来た、と書きました。


東大や、京大を出ている「霞ヶ関」に知識がとても多いでしょうが、本当の意味で知恵を持って国民に仕えているのか、国民は疑問を持っている思います。その教育は生きているでしょうか?逆に、与野党の政治家と国民は、知識の宝庫であるはずの官僚に失望しているのではないでしょうか?


私達の多くは、ただの知識には限度があると認めます。しかし、人生に知識を適用する知恵は特別だ思います。”Know how"や人生に知識を適用する知恵は大事だと思います。確かに、タイミング良くもの考えたり、感じたり、語ったり、行動することは大事です。聖書の箴言は、知恵の宝庫です。


しかし「人間は考える葦である」とパスカルは言いました。アメリカ人は、「フランクリンの十三徳」を書いたアメリカの知識人ベンジャミン・フランクリンを讃えます。最も日本人の歩みを影響しているのは賢人の孔子だと私は思います。最近、「佐賀のがばいばあちゃん」の知恵が漫画、テレビドラマや映画で人気になっています。しかし、この聖書の箇所は、人間の「知恵」に限度がある、とあります。


教会は、「教える会」と書きますが、教会の’教育’は、神と人への愛に結びついているでしょうか?教義によって、聖書を体験し、創り主を礼拝することよりも、単なる知識や理屈で終わってはいないでしょうか?自分の心を見て、悩み悲しみます。


どんなに知恵があっても「曲がっているものを、まっすぐにはできない。なくなっているものを、数えることはできない。」知恵があっても、コントロールできないものは多すぎるのです。”死”を含めてです。


伝道者の最後の方に、ソロモン王は、真の知恵について語っています。「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を恐れ敬えよ。』」先ず、「はじめに神」(創世記1:1)であるお方を私達自身の人生の’はじめ’〜最も重要なところ〜に位置づけることです。真に超越したお方です。


この超越したお方とは、私達人類を尋ねた主イエス・キリストです。聖書・コロサイ2:3には知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています」とあります。ソクラテスはこう言いました。世の全ての知恵は、この世を去って行く時の小さないかだに過ぎない。船で旅するためにより確かな土台、例えば神の言葉、がもしあったら。」ソクラテスは、イエス・キリストを求めてたと思います。


聖書で言う知恵とは一般とは異なった知恵です。イエスは、へりくだったところで生まれ、いわゆる’罪人’(つみびと)の間で歩み、その罪人の罪を代わりとなって負い、裁きを受け、死に、三日目に復活しました。この方とその御業に、私達の心を潤す究極的な知恵、満足と愛があるのです。「知恵」と言う言葉どおり、本当の恵みを知るのです。


私達は、知識や、知恵を追求すべきです。私は、学士や、修士を持っています。信州大学で英会話や英語演習を教えました。今も、上高瀬小学校で英語の協力をしています。教育は、大事です。本を読むことは大事です。私の趣味は、温泉と読書です。知識と知恵をもって賢く生きるのは大事です。


私はあることを恐れています。私達は、教育を「神」や「救い主」にしているのではないでしょうか?私達は、教育に全ての希望を起き、それに自分を捧げ、「崇拝」しているのではないでしょうか?教育であれ、何であれ、私達が最も重視してるものが、私達の神になっているのです。


知恵と知識は、究極的な満足を与えることはできません。『主よ、あなたは私達をご自身のために創られました。私達は、あなたに安らぐまで、決して安らぐことはないのです。』聖アウグステヌス。


創り主のみがその満足を与えることができるのです。実に、創り主御自身が私達の満足であるのです。CSルィス博士は、こう書きました。「主よ、どうして答えがないか理由がわかる。あなた御自身が答えである。あなたの御顔の前で疑問は去ってゆく。」


Wednesday, June 3, 2009

拉致!


横田早紀江さん「事件やその後の救出活動などを通して、確かに大変なところを通されます。体も心も疲れはててしまう事は、今でもしばしばあります。悲しくて泣くことも。しかし、その中にあって、心の底はいつも平安でいられます。すべてをご存じの神がともにおられるからです。この事件がなければ、キリストに出会うことも、なかったでしょう。私は、こうして長い年月、神に愛され、訓練しいていただいて今日があることを、本当に感謝していあます。」

横田さんはこの聖書の箇所を引用しました。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主(神)は、与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」聖書の人物ヨブのものが全て取り去れました。しかし、彼は全てを治めるめぐみ深い神に賛美をささげました。

ブルーリボンの祈り

横田早紀江