Tuesday, November 30, 2010

四国学院大学


11月25日(木)、私は、四国学院大学のチャペルの時に聖書・伝道者の書1から「空の空」と言うテーマについて語りました。 神無しでは仕事を含めて全ては空しい。全ては、キリストにあって意義ある。聖アウグステイヌスの引用で終わりました。 『主よ、あなたは私達をご自身のために創られました。私達は、あなたに安らぐまで、決して安らぐことはないのです。』

Monday, November 29, 2010

聖書 1


「聖書は実に不思議な本です。矛盾がいっぱいあるように見えて、実に良く調和されている。非科学的であるように見えて、実は最も科学的である。学者が一生かけて研究しても分からないほど深い本でありながら、その本髄は幼児にも分かる。宗教の本であることに留まらず、文学としても、教育や医学の教科書としても、倫理や科学にもインスピレーションを与え続けています。そればかり、この2000年間悩んでいる人の友、苦しんでいる人のそばにいて慰める本です。

なぜでしょうか。それは聖書が神様の言葉だからです。キリスト教は人が考え出した宗教ではありません。天からの啓示によるものです。また聖書は人が勝手に書いたものの寄せ集めではありません。聖書は特別の本です。聖霊(神)に導かれたことによって書かれた特別の本であります。パウロはこれを神の霊感によって書かれたと伝えます。聖書には神様の息吹がかかっているという意味です。というと、何かしら不思議なことが起こって、突然雷がなって、天から聖書が降ってきたというようなものではありません。ペンを執って聖書を書いたのは人間です。でも、(聖書の)2ペテロ1.21に書かれているように、聖霊に動かされた人たちが、神からの言葉を書いたものです。実際に書いたのは人でしたが、その人たちを動かしたのは神様なのです。そういうわけで聖書に書かれていることは神様のことばであり、真理なのです。」


続く

Saturday, November 27, 2010

主があなたを祝福し。。。


11月24日(水)、私は、私たの子どもが行っている上高瀬小学校で英会話を教えました。小学校に主イエス・キリストの祝福が豊かにありますように。聖書・民数記6:24−26『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』

Friday, November 26, 2010

思い切り浪費して。。。


「イエスのたとえ話の中で、裕福で健康な人は婚礼に出席するようすが見られないが、貧しい人や弱い人は走ってやって来る。いつの時代も、キリスト教の聖徒たちは、ダーウィンの適者生存の法則には全く適合しないひとたちを愛の対象としてきた。。。。」フィリップ・ヤンシー

そして、フィリップ・ヤンシーはドロシー・デイを引用します。

『思い切り浪費して、コーヒーの価格も考えずに、長蛇の列を作って私たちのところへやってくる極貧の人たちをおいしいコーヒーと上等のパンでもてなす。これは本当に楽しいことです。』ドロシー・デイ

フィリップ・ヤンシーの『だれも知らなかった恵み』<amazon.co.jp>より


Wednesday, November 24, 2010

ジーザス・バイブル・ストーリー


私たちの高瀬教会の礼拝で、讃美したり、祈ったりした後、家内の奈帆が「ジーザス・バイブル・ストーリー」を読みます。イエス・キリストの尊い恵みが豊かに分かります。その後、家内が子ども向きのメッセージをします。そして、別の部屋で子どもたちが聖書のアニメを見ながら、私が大人の聖書研究をリードしています。。。。。 高瀬町、三豊市、西讃にイエス・キリストの祝福が豊かにありますように。

「ジーザス・バイブル・ストーリー」を高くお勧めします。Click here: amazon.co.jp

Tuesday, November 23, 2010

『陽気な物乞い』


「恵みはわれわれの求めの十分な、子どもらしい、楽しい受け入れ、絶対依存による喜びを与える。われわれは『陽気な物乞い』となる。」C.S.ルイス

C.S.ルイスは、この文書の前にこのようなことを書いています。 もし人間が輝いているとすれば、その輝きはまったく人間を照らしている太陽(太陽は創り主を例えている)から来ているということを認めながらも、それを悟ることはほとんど不可能であるのです。高慢な人間は、固有の光輝を持っているに違いないと思っているのです。人間は、自分がまったくの被造物であるにすぎない、と考えられないのです。人間が、全てのものが神の恵みによって与えられていることを悟り、人間が極めて神に頼って存在してることを認めいているなら、その人間の内に喜びが豊かにあり、『陽気な物乞い』 と言える、とC.S.ルイスは言っているのです。

私には、私たちの主イエス・キリストの十字架(の恵み)以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」聖書・ガラテヤ6:14

Monday, November 22, 2010

文化祭


21日に、私たちの子どもが上高瀬小学校で文化祭をenjoyしました。

ここで皆が歌っています。ジャシュア、シェーンとホサーナがどこかにいます。

シェーンは、シエーンのセリフがありました。

ジャシュアのクラスの発表で、ジャシュアにメインのセリフー松尾芭蕉ーが与えられました。*松尾芭蕉は、『隠れキリシタン』だったそうです。Maybe!? (インターネットで<松尾芭蕉、キリシタン>を検索して下さい。)なら、ジャシュアにあう役でした。

ホサーナも、発表しましたが、発表会の後、皆で学校のダイニングルームでうどんをためました。

上高瀬小学校の皆にイエス・キリストの恵みが豊かにありますように。

Saturday, November 20, 2010

「父の愛、神の愛」3


高瀬キリスト教会にて 2008/04/06

(写:右〜安藤まりさん

。。。続き

次に母のことですが、父の亡き後、母は13年間1人暮らしをしました。母は記憶の衰えを感じてきて、最後の3年間を私たちの横浜の家で一緒に暮らしました。

母と私は、共にかもい聖書教会の礼拝に通うことができました。昔から母と私は口喧嘩をすることは多かったのですが、そのようなことを通しても、母にとっても、私にとってもさらに自分の罪と弱さを徹底して知らされ、神さまにより頼むことの信仰の訓練の時となりました。

2人で共に毎朝み言葉を読み祈ることができました。母との葛藤の中にも、神さまが私たちと共にいて守ってくださいましたことをほんとうに感謝しています。

母もまた神さまを信頼し続けて、1カ月の入院を経て、私たち家族の見守る中、私の祈りのうちに、天の神さまの元に召されました。晩年の母との3年間の生活ではありましたが、それは確かに神さまからの大きなプレゼントでした。

私たちは、ほんとうに弱いもので、目先のことに翻弄されやすく、試練の苦しみの中にある時自分の力でなんとか解決しようと焦ったりして、神さまを見失いやすいものですが、私たちの神さまは、いつも私たちを決して見離さずに愛して養い育てていてくださっています。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」ローマ828

Ⅱコリント129,10「主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」

私の持ち物で、神さまから頂いていないものは、何1つないわけで、両親の残してくれたこの家も、神さまの御用に使っていただきたいとの長い祈りに、神さまがジャンカー宣教師家族を遣わしてくださり、今教会として、また英会話クラスを通して、神さまの救いのみ言葉がこの高瀬に少しづつ広がり始めていることを、ほんとうに喜んでいます。

高瀬の地に、愛なる神さまがこれからどのようなご計画をもっておられるのか、私たちは一歩一歩をみ言葉に導かれながら、救い主なるイエスさまから目を離さないで従いながら、天に続くその道を進ませていただきたいと願っています。

終わり

Friday, November 19, 2010

「父の愛、神の愛」2


高瀬キリスト教会にて 2008/04/06

(写:右〜前川忠夫氏の子どもの時代の家

。。。続き

次に、父(前川忠夫)と母に成してくださった、神さまの計り知れない愛をお話させていただきます。

父は、知事を12年間務めさせていただいて退任した翌年の、昭和61年(1986年)、末期癌で後1年と宣告されました。私はこどもの頃から神さまのように思っていた最愛の父と永遠の別れをすることは考えられず、父がこの地上から姿を消すということは、耐え難いことでした。しかし、人は必ず死ぬということは悲しいかな、受け入れなければならないことであり、ならば絶対天国で再会したいとの強い願いが、私の心に沸き起こりました。

「神さま、父が神さまを信じて、イエス様の十字架の救いをいただいて天国に行けますように。父が神さまを信じて救われるまで、決して命を取らないでください。お願いします。癌の苦しみを和らげてください。」と、毎日ほんとうに真剣に祈りました。悲しみと心配と不安の苦しみの心が、神さまに祈り委ねることで、不思議にいつも平安に変えられていました。

ピリピ46,7「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなた方の願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」このみ言葉が真実であることを、何度も経験させていただきました。

祈りながら、手紙やビデオやテープを送り伝道しました。何度か高松に見舞いにも帰りました。

私の信仰をみて、父は「まりは、よいものを信じることができたね。」と感心して喜んでくれてました。そして「お父さんも、どう祈ったらいいのかなあ?」と聞かれました。父も癒されることのない辛い癌との闘病の中で、死に向き合い、偉大なる神を意識し恐れたのでしょう。

もう父の病状も終末にきていた頃、父は母の教会のカトリックの神父さまの訪問を受けました。

父は、神父さまとお話をした後、お祈りに合わせて、アーメンと3回繰り返し、涙を流したそうです。父が病床洗礼の恵みをいただいたということを、妹が横浜の私に電話で知らせてくれました。それを聞いた時、神さまはほんとうに生きていらして、私の祈りに応えてくださって、ほんとうに願いを叶えてくださったと喜び驚きました。この宇宙を創造され支配されておられる神さまが、こんな小さな小さき者の願いを叶えてくださったことが、あまりの驚きで歓喜!であり、涙が溢れて感謝の祈りを捧げました。

救いの恵をいただいた父は、平安のうちに3日後に天に召されました。臨終の場には、母と横浜から私と奈良から妹が間に合って家族は揃い、祈りの内に父を天に見送ることができました。

最愛の父と地上での別れは、私は予想外にも悲しみでなく、天での再会の希望が叶えられた喜びと感謝となりました。人の思いを越えた神さまの計り知れない深い愛と、救いの不思議さを思わされたものでした。ハレルヤ!

続く。。。


Thursday, November 18, 2010

「父の愛、神の愛」1


高瀬キリスト教会にて 2008/04/06

(写:左〜安藤眞里&家内の奈帆)

こんにちは。安藤眞里と申します。私の父がこの家の長男として生まれ、私の子供の頃は、私たち家族は高松に住んでいました。お正月や夏休み、春休み、また連休などには、親孝行であった父は、たびたび私たちを連れてこの高瀬の音田に遊びに来ていました。

すでに祖父母が亡くなり、私の父も召されて20年、母が召されて4年が経ちますが、このような形で、私が高瀬に戻ってくることがあるとは、夢のようです。

現在は、ジャンカー宣教師ご一家が、この家を教会として神さまの福音を伝えるために働いていてくださっています。また子供の頃から馴染みの近所の親類も、私と同じように年を重ねて、今も健在でいてくれます。

今は高松-高瀬間も、高速道路を利用して車で1時間で行き来できるようですが、昭和30年台頃は、高松駅から煙を吐く黒い蒸気機関車で善通寺駅まで来て、そこから1時間に一本の大日峠を越えるバスで崖の側をくねくねした道路を恐々と乗っていたことを思い出します。鳥坂といいましたか、この上の火の見やぐらのところの先に、バス停留所がありました。そこからはこの家まで歩いて10分ほどでしたが、高松から2時間以上かけて、この家を訪ねて来ていました。

私にとっては、高松とともに、この音田は、小さい頃から家族で過ごした思い出深い、懐かしい大切な古里です。

祖父が昭和49年(1974年)に亡くなってからもう30年が過ぎますが、その間母が定期的に掃除に通っていました。私も、帰省のたびに母と共に、この家を訪れていました。いつしか、この家をいつまでも閉め切った空き家にしているのはほんとうにもったいないと思うようになり、この家も神さまのお役に立てることができればと、来る度に祈るようになりました。

ここで、少し父の話をしたいと思います.。父は若い頃結核を煩って長く闘病生活をしましたが、何度も生死の間をさまよう経験をして、その後の人生の価値観が作られたと思います。内村鑑三、新渡戸稲造などキリスト教の信仰者から大きな影響を受けていたようでした。よく言われたことばですが、「悠久の今」、永遠の時間の中で、今すべきことに最善を尽くすという考え方でした。私の知る所においては、人間を差別しないで、人の悪を批判しない人でした。(父の心の中のことは、神さまがすべてご存知ですが、子供の私にはそのように見えました。)

私は妹と2人姉妹ですが、私は父の40歳の時の初めての子供で、大変可愛がられて育ちました。厳しく叱られた思い出も少しだけありますが、ほんとうに優しく寛容で懐の大きな父を、私は大好きで尊敬し、ある時期までは神さまのように思って大きくなりました。

次に、私自身の信仰をもつに至るまでのお話しをします。

母は私が小学生の時にカトリックの洗礼を受けて、母の薦めであり、また父も賛成してくれて、高校と大学は、キリスト教のミッションスクール(岡山のノートルダム清心)に入学し、寮生活をしました。

そこでの7年間に、私は聖書の教えの環境の中で過ごし、後にほんとうの天地創造の天の神さまに救われる下地を養われたと思います。実は、高校時代にキリスト教の洗礼を受けていたのですが、まだ聖書も罪も、神さまを恐れることも祈りも知らないものでした。

小さい頃から、親にも学校の先生にも可愛がられて、常にいい子を通してきた私も、大学卒業の頃には、本当の自分の気持ちや感情を表に出すことが下手で無意識にストレスから、いつしか私の神経は傷ついており、卒業と同時に、心を病んでしまったのです。

実家に戻ってから、私はとうとう眠れなくなり完全におかしくなって、父と母は、どれほど心配したことでしょう。両親は、私を自由にのびのびと育てたつもりでしたが、私は大学は出たものの、精神の病を患っていました。

その時、私はそれまでの人生で経験したことのない真っ暗闇の中で、深い深い精神的な苦しみの中を放浪していました。その苦しみの中から、なんとかして元気に普通の生活に戻りたいと心から願ったものです。この時の経験は、もう学歴も、地位や名誉も、財産も、お洒落もご馳走も大きな家も何もいらないと、本気でそう思いました。健康な精神と心と体がほしいと懇願する思いでした。この時の気持ちは、それまでの私の価値観を180度変えてくれたといってもいいでしょう。

それまでは、人より少しでもより高いもの優位に立つことを求めていたように思いますが、平凡でいられることは、なんという幸せ、それ以上のものを求めることは、私にとってあまり価値がないように思うようになりました。

それまで少しは持っていた自分の自信はどこかへ行ってしまい、なんと自分は弱い者であるかということを、いやというほど知らされました。それまで、私は弱いなどという言葉さえ口にも出したことがない傲慢な人間でしたが、自分の弱さを徹底的に知らされたことは、すばらしい恵みであり、この病は私には無くてはならなかったものであったとほんとうに感謝しています。(自分の弱さを知らず、また認めようとしないことほど、哀れなことはないと思います。)

私は人の目が気になり、人にどう思われるかということが、とても気になる人間でしたが、社会的な立場を気にしなくなったことがそのことから解放されるきっかけになってこの病からひとまず抜け出ることができたように思います。「人を恐れると、罠にかかる。」という言葉は真実です。

しかし、まだこの頃は、神さまを信じるまでには至っていませんでした。

主のあわれみにより、24歳で結婚し、横浜に住んで35年が経ちました。(年がわかってしまいましたね。)

初めは社宅に住んで、そして5年後、昭和53年(1957年)、今の横浜市緑区鴨居に引っ越しました。すぐ近所に、プロテスタント教会の家庭集会が開所したばかりでした。神さまは、私の引越しにタイミングを合わせて、教会をすぐ近所(歩いて2分の所)に開いて待っていてくださったのでした。

それまでカトリックの学校や社宅時代にしばらく学んだものみの塔を通しても、私は聖書にはとても魅かれていました。また2人の息子の育児をする中で、子育ての価値観の基準になるものを、探していました。

私は、聖書をもっとよく知りたいと思い、導かれて「聖書を読む会」に入れていただきました。ここでのSYKのテキストの学びを通して、聖書を楽しみ喜んで学び進めました。聖書の真理を疑うことができない思いがありましたが、そこでもまだ、自分の罪とイエスキリストの十字架の意味が頭の理解でしかありませんでした。それから何年も学び続けて、礼拝にも出ていたのですが、ある時、自分の罪深さを思い切り知らされる出来事を経験させられました。

私は3人目の子(娘)の子育て中でしたが、子供の友だちのお母さんとのお付き合いの中で、どうしても自分の本心を表わすことが出来ず、表面ではいいお付き合いをしているようでも、内心はとてもそのお付き合いが苦痛でしかたありませんでした。話し合うこともできず、自分の姿勢をはっきり示すこともできず、ただ表面上は仲良くお付き合いして相手に不誠実である自分の心の偽りが、はっきり神さまに示されて、自分の罪を体中で感じてその重さに打ちのめされるほどでした。人類一人一人の罪の身替りになって十字架にかかってくださったイエス様のことを知らなければ、立ちおおせないほどでした。この時に、私はこれま学び続けていたイエスさまの十字架は、私の罪のためであったということをはっきりと実感として知らされて、悔い改めの洗礼を受ける決心に導かれました。

Ⅰコリント123b「聖霊(神)によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません。」(この時、聖霊が私に働いて、罪を示されたのだということが、後でわかりました。)

受洗から16年が経ちますが、かもい聖書教会の教会員として、信仰の歩みをさせていただいております。

続く。。。

Monday, November 15, 2010

国分寺キリスト教会の特別集会


11月12日、私たちは、国分寺キリスト教会の集会をenjoyしました。

家内の奈帆がピアノをひきました。

菅原牧師は、司会をしました。

川村さんは、キリストとの出会いについて語りました。

岩井牧師は、メッセージをしました。「失望に終わらない本物の希望」について語りました。聖書・ローマ5:5、8「 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、。。。神の愛が私たちの心に注がれているからです。。。私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」アーメン!!!

後、私たちの知り合いの麺輝屋でうどんを食べました。Goooood!!!

Sunday, November 14, 2010

『赦し』


「あなたがたクリスチャンに対して一番ねたましいことはあなたかたの赦しです。誰も私のを赦してくれる人はいません。」マルガニタ・ラスキ、イギリスの小説家、ユダヤ人、無神論者

“What I envy most about you Christians is your forgiveness. I have nobody to forgive me.” Marghanita Laski

しかし、ユダヤ人でもあった主イエス・キリストは、罪を赦すためにこの世に来て、十字架上で、罪人の受けるべき罰を代わりとなって受けました。「父よ、彼らをお赦し下さい」と十字架上で祈ったように、イエス・キリストとその十字架の言葉を信じ受け入れるものには、罪の赦しをいただけるだけではなく、神の愛が与えられるのです。唯一の神であるイエス・キリストは約束したのです。”ラスキさん、あなたも神の赦しを体験できます。誰でも体験できます。”


Friday, November 12, 2010

綾川教会


11月8日(月)、綾川教会の献堂式が行われました。家内と二人で参加しました。イエスの御名によって、綾川教会、綾川地域、高松に、神様の恵みが豊かにありますように。「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。」聖書・エペソ3:20、21 *奈帆は、写真の左下です。


Thursday, November 11, 2010

キリスト者は....


キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、誰にも服しない。キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、誰にでも服する。」マルテンルター

映画「ルター」(Luther) 残念ながら、日本語にはなっていません。


Wednesday, November 10, 2010

ハレルヤコーラス


アメリカにいる私の親友、Ken Matsuda がこの素晴らしい音楽の情報を送って下さいました。

San Francisco Chronicleによると、10月30日、アメリカのフィレデルフィアの高級デパートのメイシーズで突然メサイア(ヘンデル)のハレルヤコーラスが650人以上の方によって歌われました。欧米では、ハレルヤコーラスは、アメージンググレースに次いで有名な作曲です。私は、涙が出るほど感動しました。Please listen. YouTube - Opera Company of Philadelphia "Hallelujah!" Random Act of Culture.

イエス・キリストを讃える歌です。歌詞は次の通りです。

ハレルヤ、全能であり、私たちの神である主、アレルヤ!
この世の国は、我らの主と、そのキリストのものとなった。
主は世々限りなく統治される。ハレルヤ!
「王の王、主の主」主は世々限りなく統治される。ハレルヤ!

もっと詳しくはハレルヤ・コーラス

Sunday, November 7, 2010

日本の高齢化


昨日、私たちは、老人ホウムを尋ねました。子どもたちに「弱い人を助ける」ことを学べるように行きはじめました。しかし、寂しい年老いた方は、子どもたちあうことがとても嬉しいので、私たちは、定期的にいきはじめました。上の方は、私たちを見ると目が光り、出来るだけ多く尋ねるように、と言って下さいます。

ご存知のとおり、日本は、高齢化しています。人々は老人ホームであまり働きたくないようですし、早く止めたりするようです。なぜなら、仕事がハードで、賃金は低いのです。教会が日本の社会に仕える一つ大事な道は、このようなホームを尋ねるだけではなく、ホームで働くことです。キリストの慈愛に動かされて、この尊い方に仕えることが出来、キリストの栄光を表すことが出来ます。

「皆に、必要とされないこと、愛されないこと、顧みられないこと、忘れられることは、何も食べられない人よりも、より大変な飢餓、より大変な貧困である。」マザー・テレサ

"Being unwanted, unloved, uncared for, forgotten by everybody, I think that is a much greater hunger, a much greater poverty than the person who has nothing to eat." Mother Teresa

日本の高齢化の現状と課題を読んで下さい。


Saturday, November 6, 2010

「空の空」 12


「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい。財産がふえると、寄食者もふえる。持ち主にとって何の益になろう。彼はそれを目で見るだけだ。働く者は、少し食べても多く食べても、ここちよく眠る。富む者は、満腹しても、安眠をとどめられる。私は日の下に、痛ましいことがあるのを見た。所有者に守られている富が、その人に害を加えることだ。その富は不幸な出来事で失われ、子どもが生まれても、自分の手もとには何もない。

母の胎から出て来たときのように、また裸でもとの所に帰る。彼は、自分の労苦によって得たものを、何一つ手に携えて行くことができない。これも痛ましいことだ。出て来たときと全く同じようにして去って行く。風のために労苦して何の益があるだろう。しかも、人は一生、やみの中で食事をする。多くの苦痛、病気、そして怒り。

見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」聖書・伝道者の書5:10ー20


ある方は、残念ながら、今も、バブルが崩壊した後でも、富みによって、幸福を得ることが出来ると思っているのです。本当にお金を得て、本当に幸福になれると思うのでしょうか?富の限度が分からないのでしょうか?富が自分を救えると思うのでしょうか?富みを愛することによって、失望している人が多くいるのではないでしょうか?

金銭を「愛する者」は、どうなるのでしょうか?その悲しい結果がソロモン王によって記されています。「。。。収益に満足しない。。。財寄食者もふえる。。。安眠をとどめられる。。。富が、その人に害を加える。。。」「これもまた、空しい」とソロモンは嘆くのです。「全ては空。。。空の空」です。富や金銭を貪る(むさぼる)ことを含めて。

「いったい、どっちが主人なのか、という。」富を貪っている人が主人なのか?人を滅ぼしている富が主人なのか?自分がコントロールすべき富みは、自分をコントロールしているのです。

ハワード・ヒューズは、20世紀を代表する大富豪として知られ、「地球上の富の半分を持つ男」と言われました。彼の残した財産は、天文学的な数字でありました。天才的な大富豪として富と名声を得たましたが、その晩年は孤独でありました。彼は、麻薬に取り付かれ、細菌恐怖症になりました。悲劇ですが、彼は、孤独の中に死んでいきました。死んだ時、190センチあった体は、45キロでした。富は、幸福を与えることは出来ないのです。富を貪るヒューズのような「人は一生、やみの中で食事をする。多くの苦痛、病気、そして怒り」にある、とソロモン王が書いています。

富の意味と本質をわきまえなければならないのです。富には限界があるのです。人間は、富によっては救われません。ですから、ソロモン王は、こう書いています。「痛ましいこと」ですが、「自分の労苦によって得たものを、何一つ手に携えて<あの世へ>行くことができない」のです。「裸」で「母の胎から出て来たときのように」、「裸で。。。<あの世へ>去って行く」のです。

エジプトのパラオ、中国の陛下とインカの王のお墓を考えさせられます。彼らは、皆、「裸」で生まれました。しかし、お墓の発掘によって分かることは、その国々の君主は、“あの世”へ富みを持っていける、と思っていたことです。その君主と共に墓には、“あの世”で仕えると思っているものが多く置かれていました。ある墓には、共に生き埋めされた妻や召使いの遺体もありました。悲しいです。いや、聖書は、「空しい」と断言しています。富は、あの世へ持っていけないのです。

富をあの世へもっていけないので、労苦や富の意義と本質を良く考えなさい、と言うことです。『富は一時的なもの』であることを考えもしないで、ただひたすら労苦にのめりこむのは空しいのです。正に、「骨折り損のくたびれ儲け」です。しかし、真に神の栄光のためになら、隣人愛のためになら「骨折り得(とく)の天国儲け」であります。

富と労苦を含めて、全ては「神の賜物」であります。『神』が許している、『神』が与えている、と実感すると、真の「好ましさ、。。。幸せ、。。。楽しみ、。。。喜び」があるのです。「まさしく、今、自分から神を仰ぐ目を落としたとしたら、人生に目的が全く無いことに驚く。神むくいたもうと知らなければ、労働は苦痛のみ。『骨折り大損のくたびれ大儲け』となるばかり。神統(す)べ治めたもうと知ることなければ、世界も、宇宙も、無意味、無意義。ましてや神なくんば宗教などナンセンスよ。。。。神という一枚のカード抜きでは世界も人生も空の空の風が吹き抜ける。神を神とする時、一切をみそなわす神あって、富の何たるかをわきまえ、労働の価値を知り、人生の秘義を解して、宗教の醍醐味(だいごみ)を味得する、という境地でしょうか。」小畑進。「神を神とする時」極めて恵み深いお方を知り、富みに勝る富と宝を知るのです。

私たち人類は、富を通して自分を救おうとしているのです。働いて自分が得たと思っている富を通して自分の価値を見いだし、人の賞賛を自分のものにしようとしているのです。しかし、富は、消えていくのです。富は、この世であっても人を救えないし、もちろん「あの世」であっても救えません。

真の救い主は、唯一、主イエス・キリストです。イエスは、十字架上で私とあなたのような罪人の身代わりとなったのです。十字架上でイエスは、人の罪を負って裁かれ、それによって人は救われるのです。「むなしい生き方から贖い救い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、。。。キリストの尊い血によって贖い救い出されたのす。」聖書・1ペテロ1:18 イエス・キリストは、金銭によって買えない真の幸福を、自分の命を十字架上で代価にして、人々のために勝ち取ったのです。

イエス・キリストの十字架の恵みを心(しん)に知ると、富から解放され、富を手放し与えることが出来はじめるのです。富が来た源—神—へと帰すのです。隣人に、特に貧しい人々にまわすのです. 聖書・ガラテヤ2:10貧しい人たちをいつも顧みるように」とあります。神を無視し、富を握ると、全て失うのです。富を手放し、イエス・キリストの尊い恵みを握ると、与えることが出来、真の富、天そのものを喜べるのです。<写真:クリック>


Friday, November 5, 2010

Mrs. Mari Ando


私たちの家の家主、安藤マリさん、は、横浜から高瀬の家を’チェック’しに来ました。高瀬教会のはじめの洗礼にも他の方とともに立ち会って下さって、イエス・キリストによる救いの体験談もして下さいました。また、安藤さんと付き添って私たちは三豊市の横山市長にもあいました。写真では、家内の奈帆と安藤さんは、近くのJAマーケットで、横浜に送るためのフルーツを見ています。

安藤さんがこの家を無料で教会と英会話学校のために使わせて下さっていることを心から神様に感謝しています。

Wednesday, November 3, 2010

神の国を先ず求める。。。


「愛、親切、理解、平和の”支援金”*を集めるようによりさらに主張しましょう。神の国を先ず求めるなら、お金など他のものは与えられます。」マザー・テレサ

”Let us more and more insist on raising funds of love, of kindness, of understanding, of peace. Money will come if we seek first the Kingdom of God - the rest will be given.” Mother Teresa

*マザー・テレサが言っていた「愛、親切、理解、平和の”支援金”」は、先ずお金ではなく、愛、親切、理解、平和の心と行動である。キリスト者が「神の国」(創り主の心と御支配)を実践的な愛を通して前進させるなら、貧しい人たちに施す必要なものと支援金は与えられると確信していた。また、キリスト者個人の必要なものも与えられる。マザーはイエス・キリストを引用していた。「だから、神の国とその義とを先ず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられる。」聖書・マタイ6:33

Time CNNのマザー・テレサの働きの写真集を見て下さい。Mother Teresa's- Photo Essays - TIME

Monday, November 1, 2010

世界は本である。


「世界は本である。旅しないものはその一ページしか読まない。」
アウグスティヌス

"The world is a book and those who do not travel read only one page." St. Augustine of Hippo