Thursday, September 30, 2010

シスター牧野幸江


9月18日「世界を変える100人の日本人!と言うテレビ東京の番組でシスター牧野幸江のマダガスカルの働きを見て、感動しました。

テレビ東京によると「助産師牧野幸江(77)は、アフリカで6000人の命を拾い上げました。。。アフリカ・マダガスカルでは、内乱で政情不安に陥り、世界で最も貧しい国の一つとされています。国民の平均寿命は55.7歳でありますが、その大きな原因は乳幼児の死亡率が非常に高いことにあります。そのような状況を改善しようと活動している日本人が助産師の牧野幸江です。。。貧困、栄養不足など、出産・育児の環境に恵まれていません。人口の3分の2は産院がない地方に住んでおり、出産の際は、専門知識のない村の産婆の手を借りることが多いです。。。多い時には1日10件の出産を自ら手がけ、充分な知識がない妊婦達に離乳食など出産・育児の知識を教えています。。。これまでの17年間で6000人の命の誕生に牧野はたずさわっています。」

シスター牧野は、こう書いてあります。「私たち3人は看護師であり、助産婦ですので、病院関係で働いており、1人は首都タナナリーブの病院で、もう1人はずっと僻地のアンブルノールという電気も水道もない診療所で、私はアンチラベという首都から135km離れたやや都会的な町の産院で、貧しい人たちの中で働いています。貧しくても心の温かな人たちなので、私の方が沢山のエネルギーをいただきます。分娩は半分が家庭分娩で母親の死亡率も高く、また、乳児死亡も多いので、入院分娩を勧めますが、田舎の方では道が悪くて、夜間はとても来られません。特に雨季になりますと、ひどい道になり、34時間も歩いてくる事は不可能になり、家庭分娩をすることになります。しかし、地方では助産婦もいないので、隣人のお母さん方が集まってお産を助けると言うことになります。医療方面では、まだまだ大変で、貧しい人たちは治療もお金が無いため受けることができず、惨めな状態にあります。」

教会は信者たちであふれ、。。。信者たちは本もないのに、賛美歌を暗記で56番まで歌います。教会活動はとても活発です。。。教会に行くことが楽しみで、一番上等の晴れ着でやって来ます。」Franciscan Missionaries of Maryから

募金:Hunger Zero Africa <ハンガー ゼロ アフリカ>


Tuesday, September 28, 2010

大山茂夫ー イエス・キリストとの出会い



写:私の家内の叔父、大山茂夫、が下の人生体験を私たちの高瀬キリスト教会で話して下さいました。高松の教会のメンバーとリーダーです。


「あなたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選びあなたがたを任命したのです。」聖書・ヨハネ1516


私が、洗礼を受けクリスチャンになったのは、18年前、60歳の還暦の時でした。

当時、商店街でファツション関係の会社を経営していましたが、バブルが崩壊し、多忙な毎日を送っていました。そんな時、妻からコンサートに誘われました。会場が会社の近くで時間も良かったので、気軽な気持ちで参加しました。

それがキリスト教の伝道集会だったのですが、中でもあるクリスチャン歌手の証しと、その後に歌われた賛美が、胸にせまってきました。麻薬と酒におぼれて荒んだ生活を送り家族を顧みなかった彼が、キリストに救われ、心から神を称えている姿に感動を覚え、とうとう三日間続けて集会に参加することになりました。

私は、母と妻がクリスチャンですし、妹二人もクリスチャンです。また、郊外にある私たちの会社の保養所をよく教会にお貸ししていたので、教会、牧師を知らないというわけではありませんでした。しかし、私自身がキリスト教に興味を持つことはありませんでした。

私は二十歳の時、父を心臓病で突然なくしました。母と弟二人、妹二人が残されました。末の妹文子はまだ8歳でした。弟が高校に行きながら、見よう見まねで父が残した仕事を細々と続けてくれたので、なんとか経済的には助かっていたのですが、数年して、その弟が腎臓の病で長期入院することになり、その退院と共に今度は母が結核になり、入院することになりました。当時の画期的な結核の新薬が副作用のため使うことができず、結局、手術することになったのですが、まだ肺切除の手術は始まったばかりで、入院していた病院でも手術第一号でした。まだ40歳前半の母は意外に落ち着いていたように思いますが、私は、手術の承諾書に印を押す時、不安のため、思わず天に向かって祈ったことを思い出します。人間は切羽詰まると何かに祈らずにはいられないもののようです。その後、近くに住んでいた祖母、祖父を相次いで亡くし、葬儀を執り行いました。

20歳から20歳半ばまでは、このように本当に厳しい家庭環境でした。自分の力の限界をはるかに超えたところを乗り切ることができたことに、私はいつも何か不思議な力を感じていました。もちろん兄弟の結束もありましたが、特に親しい人でもない人の好意や、良い機会が与えられたのです。しかし、それがキリスト教に結びつくことはありませんでした。

私は、家族が教会に行くことには反対しませんでしたが、私自身は、父なき後の長男として、仏壇を守ることは責務だと思っていました。息子が大学で県外に行くまで、毎年正月には一緒に神社詣でを欠かさず、仏壇を守り、先祖を大事にすることの大切さを話してきました。

 さて、3日間、集会に参加した後、私のキリスト教への興味、関心は高まってまいりました。そしてある日、当時の羽鳥純二牧師に会っていただき、幾つかの質問をしました。その殆どは、奇蹟に関するものでした。聖書には処女降誕、復活などさまざまな奇蹟が語られています。科学時代にあまりにもバカバカしいと思い、キリスト教をどうしても受け入れることができなかったからです。

「初めに神が天と地を創造した。」創世記の11節です。羽鳥牧師は私に「貴方はこれをどう思いますか」と逆に質問されました。私は「はい、そうだと思います」と答えました。私は、創造が偉大な意志によってなされたことは、理解できたからです。逆に人間を含む宇宙万物が、偶然の産物とは思えなかったからです。「貴方は、万物を創造された神がなされた奇蹟を信じることはできませんか」。目にうろこでした。まだまだ分からぬことは沢山ありましたが、その夜から祈祷会に参加することになりました。

それから数ケ月後、八尾市に住んでいる叔父の葬儀に参加したのですが、それは私が経験する初めてのキリスト教によるものでした。讃美歌に送られての出棺に感動を覚えたものです。そのすぐ後でしたが、私は、原因不明の重症の感染症を患い、1か月近く入院することになりました。入院も初めての経験でした。それまで、多忙で読書も、ままならなかったのですが、次々に差し入れられる信仰書やテープなどをゆっくり味わう機会となり、不十分だった罪への理解と、自らを省みる良い機会となりました。

退院後、数か月たった9月に洗礼を受けたのですが、続けて起きた一連の出来事に不思議な主の導きを感ぜずにはいられませんでした。そして、もっと聖書を知りたいとの思いが募り、地元の神学校に学ぶ機会も与えられました。

私は、確かに主の導きを感じましたが、クリスチャンになることを決断したのは私自身だと思っていました。しかし、聖書のヨハネ1516節の「あなたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選びあなたがたを任命したのです。」のみことばを知り、本当だと実感したものです。

さらに私にとっての恵みは、近くの長老教会に赴任してこられた、小畑進先生と15年にわたりお交わりをいただいたことです。すぐ近くにお住まいでしたし、年齢も近く、家族ぐるみのお付き合いでした。キリスト教だけではなく、佛教、神道についてもいろいろ教えて頂きました。牧師であり、また佛教関係、東洋思想の学者でもある先生は、多くの宗教は、人間が考え作った神々、への信仰であり、キリスト教は、人間を含む万物を作られた唯一の神を信仰する宗教だと云われていました。

それに何よりもご夫妻で実践されているクリスチャン生活に接したことは、たいへん素晴らしい経験でした。昨年11月に召天されましたが、その思い出は私の宝でもあります。

 人生に苦難、困難はつきものです。クリスチャンは、苦しい時、キリストに思いのすべてを打ち明けることができます。そしてキリストはいつもそばに居て下さり、私たちを見捨てず、脱出の道を備えてくださいます。今、私は、遅まきながらクリスチャンになれたことを大変喜んでいます。そして、私のような者を選んでくださった神に心からの賛美を捧げたいと思います。

Monday, September 27, 2010

神が必要である


「神が必要であるとわからなければ、神を見いだすことはできない。」トマス・マートン 

"We cannot find Him unless we know we need Him."


Saturday, September 25, 2010

9月25日、瀬戸内国際芸術祭ー 男木島


フェリーで男木島に行きました。

奈帆のお母さん、奈帆、ジャシュア、シェーン、ホサーナと私が芸術品と瀬戸内海の景色をenjoyしました。

The “You and I [Nawa] Ogijima Pillar 2010” designed by Mariyo Yagi.

面白い発想です。この羽は、モーターによって動いていたと、ジャシュアが言いました。

Thursday, September 23, 2010

「ニクソン氏に、彼を愛している人がいることを知らせるためです。」


リチャード・ニクソン元大統領は、ワーターゲート事件により不名誉な恥辱を浴びて辞任しました。そして、カルフォニアのサン・クレメンテで完全に孤立してしまいました。政治家は、自分の評判を汚したくなかったので、ニクソンを訪れなかったのです。例外は、大胆なクリスチャンでもあった、議会でクソンに反対したマーク・ハットフィールド議員(写真)でした。チャック・コールソンは、どうしてそこまで自分を犠牲にしてサン・クレメンテに行ったのか、と聞いた時、ハットフィールド議員はこう答えました。「ニクソン氏に、彼を愛している人がいることを知らせるためです。」(英:“To let Mr. Nixon know that someone loved him.”)

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」聖書・1コリント13:4−8


*このように人を愛することは、私たち自らは無理です。しかし、主イエス・キリストは、十字架上で、私たちのような愛のない罪人のために死なれました。キリストの恵みを信じ受け入れるものは、神の超越した犠牲的な愛を体験します。その愛に動かされて人を愛するのです。そのような愛でハットフィールド議員がニクソン元大統領を愛したのです。


Monday, September 20, 2010

9月19日、運動会!


私たちの子供の上高瀬小学校で運動会がありました。地域の方と良いときをもてたと思います。

4時間も暑さの中、家内の奈帆のお母さん、妹とめいが共に参加してくださいました。Thank you!


シェーン(3年生)のteamがリレーに勝ちました。

ジャシュア(5年)の”組み立てた体操。”ジャシュアが準備員でした。

パパとホサーナ(2年)が三輪車競技をしました。

*私たちジャンカー家は、速めに、切り上げました。なぜなら、私たちの高瀬キリスト教会の礼拝は、4時からです。私たちの礼拝を4時にすることによって、このような地域イベントに参加できるのです。礼拝の時は、家内のお母さんの木村文子が、どのようにしてクリスチャンになってか、を話して下さいました。恵みの時でした。

Saturday, September 18, 2010

神の御旨へと向けられるようになった。


「どれほど神仏に祈っても、しょせんは自分の無事幸福か、せいぜい家内安全を願うことに止まった。私の心がいまや、(聖書の語る)自分の罪を知り、それからの(イエス・キリストの十字架の)あがないとゆるし、神の御旨へと向けられるようになった。私は、家庭において日曜日ごとに家族らに聖書の研究や話をした。」南原繁

「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したことです。」聖書・1コリント15:1-4


Thursday, September 16, 2010

『私はどこから来てどこに行くのか知りたい。』


「湯川秀樹博士が『私はどこから来てどこに行くのか知りたい。』と言われましたが、聖書にはその回答があるのです。」大喜多 敏一

Tuesday, September 14, 2010

クリスチャンであることは。。。


「クリスチャンであることは、赦しがたい人々を赦すことである。神があなたの中にある、赦しがたいものを赦してくださったからである。」CS。ルイス

「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」聖書・エペソ4:31−32


*神様は、私の神様を愛さない、隣人を愛さない無関心と罪を、キリストの十字架によって、赦してくださり、愛してくださいました。そこまでしてくださったのなら、私は、他人の罪を赦し、その人を愛すのは自然でもあり、超自然的なことでもあります。


Saturday, September 11, 2010

恐怖


テリー・ジョーンズ牧師のコーランを焼く行動は、『恐れの表し』だと私は見る。911の後、アメリカは、変った。前と比較できないほどに、今は、恐れ、不安と心配が溢れる。テロリストは、正に「恐怖」を広げている(英語のテロリストは、恐怖の人という意味)。アメリカに、またアメリカにいるクリスチャンにも、大きな影響を与えている。しかし、私たちクリスチャンは、恐れに支配されてはいけない。聖書全体に「恐れてはならない」と命じられている。主が十字架上で私たちのために命をおしまずささげたのら、主は私たちを見守り、死にさえも直面するとき、共にいてくださる、と聖書に書いてある(詩編23)。私たちは、恐れと、恐れから流れ出る全ての行動(コーランを焼くことも)に対してNOと言うべきである。私たちは、私達と共に歩む生ける神に対して、また皆への慈愛に対してYESと言うべきである。

ダビデ・ジャンカー

日本にいる信徒宣教師

*編集長への手紙


(この文書をCNNなどの編集長へ送りました。下がその本文です。)


I see the action of Terry Jones to burn the Koran as an expression of fear. After 911 America has changed. So much more than before there is now a sense of fear, insecurity and anxiety. The terrorists have indeed spread terror. It is taking it’s affect on America- yes, even Christians in America. Yet we, Christians, should not let fear rule us. The entirety of Scripture is full of the command ‘Don’t be afraid.’ The Scripture says that, since the Lord gave His life for us on the cross, He will take care of us and be with us, even in the face of death (Psalm 23). We need to say NO to fear and all the actions that flow from fear, even Koran burning. We need to say YES to faith in the living God who walks with us and to show mercy to all.

David Junker

lay-missionary in Japan


Wednesday, September 8, 2010

「聖書」


「聖書はすべて神のことばである。」菅野 猛元東京大学工学部長


「聖書はすべて、神の霊感によるものです。」聖書・2テモテ3:16


伝道師滝元明は、こう書きました。「この不思議な書物は、神の霊感によるもので、神が人間を通してお与えになられた書物、それが聖書です。」


「霊感」と言う言葉は、ギリシャ語では”theopnuestos”と言う言葉であり、英語では”God-breathed"(神の息)と言う意味です。神の口から出たものです。すなわち、神の言葉です。


ニューヨーク、マンハッタンにあるリデーマー長老教会の礼拝で、聖書を読んだ後、”This is the word of God," (これは神の御言葉です。)と言います。


世界にいろんな言葉があります。いろんな教理、宗教、哲学、道徳があります。それらは、人間の言葉です。しかし、聖書は、神の言葉です。耳を傾けましょう。


Saturday, September 4, 2010

オーロラ


これは "Northern Lights over Teepees"と言われて、Teepee(インデアンの家)の上のオーロラと言う意味です。カナダの北部のYellow Knifeというところです。

『神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。』聖書・創世記1:3


*私がアメリカ、ミシガンのペタスキーの親戚の家に行って時、自分の目でオーロラを見ました。神秘的な現象です。


Thursday, September 2, 2010

神と人間の悲惨さ


"The knowledge of God without that of man's misery causes pride. The knowledge of man's misery without that of God causes despair. The knowledge of Jesus Christ constitutes the middle course, because in Him we find both God and our misery." Blaise Pascal

神を知って、人間の悲惨さを知らないと、傲慢の原因となる。人間の悲惨さを知って、神を知らないと、絶望の原因となる。イエス・キリストを知ることは中間の道をとることである。なぜなら、私たちは、彼(イエス・キリスト)にあって神と私たちの悲惨さを見いだすのである。」 ブレーズ・パスカル

* Comment: 聖書には「知識は人を高ぶらせる」とあります。それは、神についての知識であってもです。自分の罪による「悲惨さ」を見ると、謙ります。また、神を仰ぎ見ないで、「人間の悲惨さ」と罪ばかりに注目すると、絶望します。解決の道は、神にあるからです。イエス・キリストは、神でありながらも、人間の姿をとり、人間の苦しみを味わい、人間をその罪による「悲惨さ」から救うために来たのです。『「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。』聖書・1テモテ 1:15

Wednesday, September 1, 2010

医者を必要とするのは病人です。


「私が初めて聖書に出会ったのは、富士銀行の国際部にいた頃でした。その時は、信仰に至ることはありませんでした。その後、バブルが崩壊し、多忙のため疲れ果て、数日間入院しましたが、再び手に取ったのが聖書でした。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。。。』その為に来られたキリストの招きに、私は心の病人だと気づいたのです。洗礼を受けたのは45歳でした。その後、みずほコーポレート銀行の企業再生事業に従事しましたが、難しい折衝に気持ちが高ぶることもありました。そんな時、私は心の中で主に祈りました。人事を尽くして天に委ねる。イエスさまが救ってくださる。私は今、新事業にかかわっていますが、いつも心がけているのは『お客様満足』です。『自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい』」。金森一雄

「そこで、イエスは答えて言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。』」 聖書・ルカ5:31−32