Wednesday, February 29, 2012

自治会


日曜日、26日、自治会の私たちの最後の集いに参加しました。

そして、北原の皆さんのために祈ります。

『主があなたを祝福し、

あなたを守られますように。

主が御顔をあなたに照らし、

あなたを恵まれますように。

主が御顔をあなたに向け、

あなたに平安を与えられますように。』

聖書・民数記6:24−26


Tuesday, February 28, 2012

加賀乙彦


昨日、塩入温泉に行った時、家内の奈帆が四国新聞の『遠望』を読んでいました。小説家・精神科医加賀乙彦氏についての記事でした。

加賀夫婦が洗礼を受けたのは24年前、彼の58才のころでしたが、彼は、4日間にわたって、神父さんにいろんな質問を聞きました。例えば「科学というのは、神の神密をなんとか説き明かそうとする人間の勢力でしょうか?」

「人間の体には分からないことがまだまだある。一人一人が自分の中に、謎に満ちた美しい大宇宙を持っているんです。。。決して人間にはつくることができない。。。神がなさることなんです。」

東日本大震災に関して、彼は「神からの警告」である、と言いました。「僕はあれほどの大津波を起こす自然というものに、やはり神の力を感じる。自然の力は計り知れず、予測することもできない。。。」

私もそうですが、「頑張ろう!」と言うことばに対して、彼は”違和感を感”じました。「人間を超えた大きな力を持った存在がこの世にあることに対して、われわれは謙遜に祈らなければいけない。そこに希望が現れてくると思う。。。教会で同じ志の人たちとともに祈る。僕にとっては、それが一番の幸福なんです。」

「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を大いに喜んでいます。」聖書・ローマ5:2

他参考:asahi.com

Sunday, February 26, 2012

目標に関しては困惑している



「私たち世代は手段に関しては上達している。しかし、目標に関しては困惑している。」アルベルト・アインシュタイン

“We are a generation of improved means. And confused goals.”

*科学や技術が進歩していても、それを何に使うべきか、なぜ使うべきか、なぜ人間が存在しているか、が分からない。聖書は、造り主と隣人を愛することが、人間の生きる目的で、全ての目的である、と教えている。

そのうちの一人、律法(聖書)の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者(聖書)は、この二つの掟に基づいている。」イエス・キリスト、聖書・マタイ22:35ー40


Friday, February 24, 2012

神の和解を受け入れなさい。


『こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方(イエス・キリスト)を、(十字架上で)私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。』

聖書・2コリント5:20ー6:2



Thursday, February 23, 2012

ゲートボール


先週の18日(土)、シェーンが地元の小学校とのゲートボール大会に参加しました。第二試合で、彼は、チームを勝利に導きました。ゲートボールは、アメリカやイギリスでするクロケー(croquet)にそっくりです。私は、子供の頃、おじいちゃんの家の芝生でしたのを覚えています。

Tuesday, February 21, 2012

祈り!


「全て行動(英:action)の最大の助けはー祈り、それが真の天才的(英:genius)知恵である。これで、けして間違うことはない。」セーレン・キエルケゴール
キエルケゴールは、キリスト者、哲学者、神学者としてキリスト教の客観的な真実さを立証したが、それよりもキリスト者が主観的(実際的)にイエス・キリストを体験することを強調した。>

"The best help in all action is – to pray, that is true genius; then one never goes wrong."

「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、(十字架上で)すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。」聖書・1テモテ 2:1−6


Saturday, February 18, 2012

伝統の子育てを見返す


パトリシア・ジャンカー <写真:友だちと話す母。右がわ。>

(私の母、長野県松本市で50年近く、父と、教会の開拓をした。ラジオ番組「豊かないのちアワー」で話し、聖書書店を経営した。松商短大などで英語を教えた。また、多くのPTAなどで講演した。)

下は平成2年1月信濃教育界発行の「山びこ」57号(伝統の子育ての良さ)掲載されたものです。


外から日本を見ています。

日本人の心を知りたいと思って、「修身」の教科書を読ませていただきました。胸がいっぱいになって、涙を流して読むところがありました。同時に、どうしてあんな事実を曲げて書いているのかと、腹が立ってたまらないところもありました。

その中の一つ、とても大事なものを見つけました。“人を尊敬する”ということです。もちろん、その文書は書いた人の心を反映しているでしょうが、それでもやはり、そのことがその時代の人々に受け入れられる教えだったからだと思います。

アメリカの多くの先生がたが、日本の教室をうらやましく思う一つは、生徒が先生を尊敬するということです。ときにはうわべだけのこともあるでしょうが、わたしは三十五年間日本にいて、生徒が先生を尊敬する場面をよく見かけてきました。上杉鷹山が先生を迎えに行かれた「修身」にあるお話を思い出します。

上杉鷹山は細井平州を師として学んでいました。ある年、平洲を自分の国へ招きました。鷲山は、城から一里あまりの所まで自ら出向き迎えました。平洲が着くと大声で「先生ご安泰」と声をかけ丁寧に敬礼しました。それから、近所の寺にいって休みました。三町ばかりの急な坂を鷲山は一歩も平洲より先でることなく、さらに、平洲がつまづくことを気づかって、近くに並んで進みました。本堂に着くと、平洲を座に導き、ねんごろにもてなしました。

尊敬の心がなければ物を覚えることはできないとわたしは思います。相手を見下げているようでは決して人から学べないと考えます。

わたしの家では、こどもに“馬鹿”ということばを言わないように教えました。親が子どもの心を支配することは出来ないことをよく知っていますが、口から出ることばを指示することはできます。それは、「心に満ちていることを口から出す」(聖書・マタイ12・34)のだからです。わたしの家のものは外人です。この国とっては客人です。まして、「動物だ」という意味の”馬鹿“ということばを言ってはならないと思います。わたしは教室でも同じことを教えます。隣の子を”馬鹿“と言うようであったらどうしてその人から教えを受けることができるでしょうか。

東洋では、年を召しておられる人は尊敬されると世界の人は思っています。聖書も、「あなたは白髪の老人の前では起立し」(レビ記19:32)と教えています。また、「あなたを生んだ父の言うことを聞け。あなたの年老いた母をさげすんではならない」(しん言23:22)と、親を尊敬すべきことも教えています。

親を尊敬する子どもが自然にすることではありません。教えてあげなければならないことだとわたしは思います。

わたしの家で“馬鹿”ということばを禁じたのは人を尊敬するということを教えるための「手段」だったのです。子どもたちが主人とわたしを尊敬する一つの方法でもありました。「子どもたちよ、主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。あなたの父と母を敬え。これは第一の戒めであり約束を伴ったものです。すなわち、そうしたらあなたは幸せになり地上で長生きするという約束です」(エペソ6・1、2)とも教えています。

多くの失敗をしている親ですが、なによりも自分の子どもたちが幸せになることを願っています。ですから、わたしは従うこと、敬うことを教えるのです。

年寄りの方や両親を敬おうことができたら、きっと先生も隣の席にすわる友だちももうやまうことができるでしょう。

尊敬されるようなれためには、わたしはとうしたらよいでしょう。欠点だらけのわたしですが、口をとおして、行動をとおして、子どもをとても大事に思っていることを表すことでないかと思います。その子が神様に似せて作られていることを知ってその子を尊敬すべきだと思います。

あるとき、子どもが父親と対立することがありました。わたしも夫は違う意見をもっていました。そのときでも、父親に従うべきだと教えました。わたしは母親として、子どもが父親を尊敬することを教えたいと考えたのです。夫には責任を負っていただくからです。父親が多くの留守をしていても、わたしたちは父親を立てるべきだと思います。小学校の先生がある日わたしを呼んで、「お宅の娘さんはごめんなさいということばをなかなか言わないですよ」とおっしゃいました。わたしはしかるべきかどうか迷いました。考えているうちに、娘をしかるのではなくて母親のわたしが、努めて「ごめんなさい」と言うことだと思い、実行しました。わずか数週間ののちに、先生が「娘さん、ごめんなさいが言えるようになりましたよ」とおっしゃいました。

子どもが人を尊敬しないのは、私たち大人どうしに尊敬し合う態度がないからではないでしょうか。親の二人がお互いに尊敬し合うことを通して、子どもに“尊敬する”ことを教えることができると思います。わたしは結婚してから、夫とだいぶ違った性格を持っていることがわかりました。対立することもありました。ある日、意見が合わないために、怒ってしまったことがありました。わたしは、夫の欠点を書き出してみました。おもしろいことには、夫の至らない点はわたしのストロングポイントでした。逆にわたしの弱い点が夫の強い点でした。夫は、わたしにとってやはり必要な人だったのです。そして、わたしも夫に役立っていると思いました。これが“尊敬”の元かもしれません。

子どもの心を変えるには、親が変わらなければならないと思います。その子のよいところを見つけ出し、認め、褒めるのです。もうすでに、曲がった心を持った子もあるでしょうが、それでも何か良いところを見つけるのです。ときには自分の力の及ばない子どももいるでしょう。わたしはその子のために祈り、瞑想します。そうすれば、今まで思いつかなかったアイデアが浮かぶこともあります。

伝統の子育てを見返す根本の一つは“尊敬する”を問い直すことではないでしょうか。


すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。」聖書・1ペテロ2:17


Thursday, February 16, 2012

娯楽


「娯楽(気晴らし)のみが私たちの悩みから私たちを慰めて下さる。しかし、これこそが私たちの最大な悩みである。これ(娯楽)こそが自分について考えないようにする主な妨げである。そして、これが私たちを無感覚になるほど破滅に導く。」ブレーズ・パスカル

"The only thing which consoles us for our miseries is diversion, and yet this is the greatest of our miseries. For it is this which principally hinders us from reflecting upon ourselves, and which makes us insensibly ruin ourselves." Blaise Pascal

「上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。」聖書・コロサイ3:1、2


Wednesday, February 15, 2012

ジェレミー・リン


NBAのニューヨーク・ニックスのジェレミー・リンは、まだどのくらい続くか分からないが、現在、NBAで旋風を起こしています。2月10日、対レーカズで38得点を記録しました(NBA.com)。その記事では、ただ「アジア系選手」とあります。しかし、彼は「私は日本人には見ないが」と言いました。実は、彼は、中国系・日系アメリカ人です。お母さんが、日系アメリカ人です。

また、彼は、敬虔なクリスチャンで、彼は、クリスチャンの家庭で育てられました。彼は、NBAでの活躍について、こう言いました。「低くされます(humbling)が、特権だし、光栄です。。。。この機会を神にただ感謝しています。。。。私にとって、最近までの1年半の三日ほど前までは、このリーグの中で自分の居場所を探すのは、とても大変でした。このような機会を下さった、私の主と救い主であるイエス・キリストにただ感謝しています。ここまで来るには、ことばに言えないほど、いろんな出来事がありました。私はただ圧倒されて(overwhelmed、感動というみもある)います。」World

Tuesday, February 14, 2012

「二十六聖人」


二十六聖人は、世界的に有名な日本人です。1596年12月8日、豊臣秀吉は、日本の全てのクリスチャンが死刑にされるように命令しました。当時、有名なクリスチャンは、石田三成小西行長高山右近でした。また、大阪・京都のあたりで、身分の高い商人のクリスチャンも多くいました。彼らは、熱心に教会や貧しい人に仕えました。死刑執行に着いて聞いた時、彼らは、準備しました。

しかし、実際は、26人外国の神父や身分の低い日本人のクリスチャンーが選ばれました。しかし、彼らの誰一人、教会に多くの寄付をしたのではなく、貧しい人に多くの施しをした訳ではありません。教会で多く奉仕した訳でもありません。人から見て巨人ではありませんでした。彼らは、静かに良い行いをしていたのです。

二十六人は、1月3日牢屋に入れられ、一の城の道で耳が切り落とされました。流れた血が間もなく凍りました。7日8日、大阪や堺で引きずり回された後、雪の中で800キロも、薄い小物一枚で裸足で歩かされました。一番若いのは、12才のルドビコ茨木で、次は、13才のアントニオで、次は、14才のトマス小崎でした。遂に、2月5日、長崎に着き、西坂で十字架刑にされ、槍で刺しとうされました。笑顔があったそうです。一番若いルドロビコが胸に槍を受けたときこう叫んだそうです。『天国!天国!』

二十六聖人の中で偉い人一人もいませんでしたが、カトリック教会の中で「聖人」と言われてきました。プロテスタントの私も敬意を表します。

『しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」』ヤコブ4:6


Monday, February 13, 2012

ミナちゃんとマコトさんのWEDDING


2月11日、家内の妹が結婚しました。

「。。。その健康のときも、病のときも、富めるときも、貧しきときも、いのちの日の限り。。。」

「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分を(十字架上で)お与えになったように、妻を愛しなさい。。。。妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。」聖書・エペソ5:25、33

Sunday, February 12, 2012

孤児


第二次世界大戦の最後の時期になって、日本軍は、ある長崎の近くの修道会の修道士たちをあそ山のあたりで収容し、とても苦労させました。戦争が終わって、修道士は、元の壊された修道院に戻りました。そこに、警察が孤児を連れて来たり、修道士自身も孤児を探しに行ったりしました。修道士らは『愛の弟子』として知られて来ました。修道士たちは、貧しい生活をしていたので、部屋、食べ物とお金の余裕はありませんでした。しかし、喜んで孤児を迎えました。修道士は、自分の個室を孤児にゆずって、修道士は、押し入に寝ました。自分個人の食べ物をも子供たちにあげました。

永井隆

東北の震災の孤児はどうなっているでしょうか?彼らは、親戚や施設に行ったのでしょうか?新しい家庭に入り、養子にされているのでしょうか? ここは?東京アンテオケ教会

『そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた。ところが、弟子たちは彼らをしかった。しかし、イエスは言われた。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」そして、手を彼らの上に置いてから、そこを去って行かれた。』聖書・マタイ19:13−15

写:永井と、後に孤児となった子供。


Saturday, February 11, 2012

5000円札の新渡戸稲造


あの5000円札の新渡戸稲造は、札幌農学校(現在北海道大学)のウィリアム・クラーク博士の影響によって「イエスを信ずる者の契約」に“Ota I.”とサインしました。その信仰を人生貫き通しました。

アメリカ、ジョンズ・ホプキンズ大学で学んだ後、札幌農学校で教えました。クラークのように、聖書研究会を開きました。彼は、「キリスト者は決して争ってはならない」と教えました。彼は、こう願っていたのです。“I wish to be a bridge across the pacific.” 「我太平洋の架け橋にならん。」

「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」イエス・キリスト、聖書・マタイ5:9 「実に、キリストはわたしたちの平和であります。。。十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」聖書・エペソ2:14、16 イエス・キリストとその十字架を通して、人は、神と和解し、その和解が基盤となって、人はとのと和解が出来るのです。「神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方(キリスト)を、(十字架上)私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。聖書・2コリント 5:21


Wednesday, February 8, 2012

満濃キリスト教会


今週の日曜日、私は、満濃キリスト教会で1ペテロ1:18−21からメッセージしました。
知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」聖書・1ペテロ1:18−19。
『忠臣蔵』でも、内匠頭のために内蔵助が死ぬことはあっても、内蔵助のために内匠頭が死ぬことはない。義経のために弁慶が死ぬことがあっても、弁慶のために義経が死ぬことはない。第二次世界大戦中、天皇陛下のために死ぬことを光栄とし、「天皇陛下萬歳」を唱えて、兵卒は死にましたが、天皇は一兵士のために死にましたか?
「どうせ、わがごとき奴輩のためには、猫の子一匹死んではくれまい。どこかで野垂れ死によ。。。」小林一茶
それなのに、それなのに、それなのに、こんな小さな者のために内匠頭どころか、義経どころか、天皇陛下どころか、宇宙の創造主である三位一体の神の「御子なる神」が生命を捨てるなどということを誰が思ったことでしょうか?
「こんな毛虫野郎のために、ほかの誰でもない御子なる神ご自身が生命をささげたもう。」小畑進牧師

Monday, February 6, 2012

福沢諭吉


福沢諭吉は、キリスト教嫌いと言われています。しかし、「天ハ人ノ上二人ヲ造ラズ人ノ下二人ヲ造ラズト云ヘリ」という言葉で有名ですが、『伝ヘリ』という言葉は、アメリカの独立宣言からとっています。そして、アメリカの独立宣言では「天」のことは「神」と書いてあります。福沢もそう考えていたのです。

子供に書いた教育書『ひびのをしへ』(日々の教え)にこう書いてあります。「てんとうさまをおそれ、これをうやまい、そのこころにしたがふべし。ただしここにいふてんどうさまとはにちりん(日輪)のことにはあらず。西洋のことばにてごつど(GOD)といひ、にほんのことばにほんやくすれば、ざうぶつしゃ(造物者)といふものなり。」福沢は、子どもに、聖書の『創造者を敬うように』教えていたのです。

福沢は、英国国教会宣教師アレクザンダー・ショーを家庭教師として招き、彼からから多く聖書を学んだのです。また、家だけではなく、大学ででも聖書を教えるのを許しました。「私は彼(福沢)が造った学校で倫理実際は聖書を少年教えている」とショーは書きました。福沢は、家で大学で、キリスト教育を他の宣教師にも許しました。彼の娘や孫がクリスチャンになったのです。

「あなたは主を畏れることを悟り、神を知ることに到達するであろう。知恵を授けるのは主(福沢がいう造物者)。主の口は知識と英知を与える。」聖書・箴言2:5、6


Saturday, February 4, 2012

新島襄と教育


新島は、聖書を知りたくて、日本がまだ鎖国の頃、密かに渡米しました。「福音が自由に教えられている国に行くこと」を決意したのです。その途中、香港で刀を売り、中国語の聖書を手に入れました。ボストンについて、ハーデーにあい、イエス・キリストとその十字架を信じ、教会で洗礼を受けました。彼は、アムハースト大学で学び、日本人初の学士の学位取得し、牧師を目指しました。

新島襄は、アメリカに来ていた岩倉使節団の方に、聖書がどれほど素晴しいか、説得しようとしました。彼は、こう思っていました。「人が神を信じるのを止めてしまったら、それ(聖書)は哲学でしかありえない。」また、「教育だけでは有徳な人間を作ることは足らず、理知哲学や道徳哲学も同じである。然し、これに反して、キリスト教は、人々を自由にし、強くし、有徳にする力がある。」1872年3月19日 ハーデーに送った書簡より

参考:聖書を読んだ侍たち

「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭し(さとし)をも侮る(あなどる)教訓を軽んじる>。」聖書・箴言1:7 *この聖句が元県知事前川忠夫氏の一番好きな聖句

Thursday, February 2, 2012

坂本龍馬の夢を次いだ男ー坂本直寛


坂本直寛は、坂本龍馬の甥で、龍馬の夢を受けついた男として知れています。彼は、高知で、西洋を学ぶためには、宣教師を招き、演説会を開きました。彼は、聖書を学び、後に洗礼を受けました。県会儀員の頃、事件によって監獄に入れられましたが、新たに聖書を読み、信仰を深めました。

後、龍馬の夢を成就し、北海道に着いて坂本直寛は、こう書きました。「私たちは草むらにひざまずいた神に感謝し、合わせて将来について祈った。」彼らは、北海道の発展の礎を築いた男の一人です。

坂本直寛は、伝道者の道を選び、監獄伝道に専念しました。彼の監獄中伝道について、こういう記録があります。「神にお祈りする時、熱心に涙を流してお祈りをする。。。囚人たちは、悔い改めた。」ある時、1000人の囚人の前でイエス・キリストの十字架の愛を説いだ時、囚人からの信仰の声が聞かれた、と言われています。

彼の原点は、漢訳聖書でありました。「人はパンによって生きるのではなく、神の言葉によって生きる。」好きな聖書の箇所は、ローマ12:11。「。。。霊に燃え。。。」とは、キリストの十字架の恵みによって救われた感激、とある牧師は説明しました。

北海道の開拓だけではなく、信仰においても、直寛は、龍馬の思いを次いだ、と言われています。

「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。。。。愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃え、主に仕えなさい。」聖書・ローマ5:812:9−11