Friday, May 29, 2009

目的のないものはない。。。


造られたもので
目的のないものはないという
価値のないものはないという
動かない指を見ながら
今日はそのことを思った
星野富弘

「わたし(神)の目には、
あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。」
聖書

星野富弘
1946年、群馬県に生まれる。90年、群馬大学教育学部卒業。中学の体育教師となってわずか二ヶ月後、脊髄損傷で首から下の自由を失う。9年間の入院中に、キリスト教の洗礼を受け、筆を口にくわえて詩や絵描き始める。81年に初の詩画展が開かれる。91年に、故郷の東村(現・みどり市)に富弘美術館オープン。08年10月8日に放送されたためしてガッテンに出演。『愛、深き淵より。』『風の旅』『ことばの雫』[Amazon]ほかの詩画作品集・対談集がある。

Tuesday, May 26, 2009

ダ・ビンチ・コード 映画


最近、家内と一緒に「天使と悪魔」を観に行きました。第一弾の映画「ダ・ヴィンチ・コード」は話題作になっただけではなく、広い宗教的論争を起しました。クリスチャンや、教会を批判していただけなら、そんなに問題はなかったでしょう。しかし、真実と不真実を混乱させ、特にイエス・キリストについての事実が曲げられました。真実は何でしょうか?特にイエス・キリストについて調べてみましょう。

その前に、One Question。 どうして著者ダン・ブラウン、ソニー(コロンビア)&監督ロン・ハワードが大騒ぎを起すのにもかかわらず、この映画を作ったのでしょうか?私のメールに、ある新聞記者はこう答えました。「私の意見では、全てお金に動かされている。ロン・ハワードは監督だけではなく、プロデユーサーです。宗教的論争を起せばとても多くのお金をもうけることができる。」しかし、。。。歴史的真実はどうでしょうか?

マグダラのマリアはイエスの妻!? ダ・ヴィンチ・コードによると、イエスはマグダラのマリヤと密かに結婚し、子供が1人いた!?

著者ダン・ブラウンはグノーシス派の福音書の中のピリポの福音書から次を引用しました。「救い主の同伴者はマグダラのマリアである.キリストは彼女のことを他の弟子達より愛し、しばしば彼女の唇にキスをした」と書きました。

実際は、著者ダン・ブラウンの情報源、ナグ・ハマデイ文書(グノーシス派福音書を含む)は信頼するに足る文書ではないです。使徒や使徒たちの仲間によって書かれたものでもないです。

また、専門家によると、ピリポの福音書に出てくる「同伴者」という、言葉の原語は、ギリシア語の借用語「コイノノス」であり、明らかに「伴侶」ではなく、「友」または「仲間」を指しています。従ってマグダラのマリアがイエスの妻とは裏付けられないです。

「古代史科の中でイエスが結婚していたと示すものはひとつもない。また、マグダラのマリヤと結婚していたと示す資料も一つもないことはいうまでもない」とバード。D。エアマン博士は書きました。

シオン修道会の悪事!? ダヴィンチコードによると、イエスとマリヤの血統を守るために、1099年に創設されたヨーロッパの秘密結社!?

実際は、低価格住居が必要な人たちを助けるために作られた結社です。

絵の中の弟子ヨハネは実際はマグダラのマリアである!? 有名な絵画「最後の晩餐」は、ダン・ブラウンの解釈によると、イエスの右側にいるのは弟子のヨハネではなく、マグダラのマリアであり、これはイエスがマリヤと特別な関係にあったと考えさせる証拠である、と書いた。

実際は、シカゴ美術館のブルース,バウチャー氏は、ヨハネが明らかに女性的に見える事実を説明しています。「聖ヨハネは、いつも美しい若い男性として描かれた。」

投票してイエスが神であると決めた!? ダ・ヴィンチ・コードによると、イエス・キリストは単なる人間であった。しかし、AD325年のニケーア公会議(司教の集まり)での投票の結果、彼は聖なるポジションに押し上げられた!?
実際は、ニケーア公会議では、イエスは単なる人間か、それとも聖なる方かということではなく、イエスは創造されたのか、それとも永遠に存在するのかということが問われました。「人」か「神」かという選択ではなく、「永遠の存在」か「被造物」かでありました。

聖書や初代教会の立場は、明らかです。イエス・キリストは、自分が「神である」ことを言葉と行動で明らかにしました。聖書・ヨハネ1:1でこう書いてあります。初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことば(イエス・キリスト)は神であった。」初代教会は、このためにいのちまで捧げました。

世界のカレンダーは、イエス・キリストの生涯— 西暦— によって決められました。世界中でイエスの誕生日ー クリスマスー をお祝いしています。イエスが主役である聖書が世界のトップセラーです。いったいイエスはなにものなのでしょうか?

医者ルカは、イエスについて書いたはじめの文書にこう書きました。「イエス・キリストの伝記は、最初からの目撃者であり弟子であった人たちの証言をもとに、すでに幾つかでき上がっています。しかし私は、すべての記録を、もう一度初めからチェックし、徹底的に調査した上で、あなたのために順序正しく書いて差し上げたいと思うようになりました。それによって、教わっていたことはみな正確な事実であることが、よくおわかりいただけると思います。」聖書ルカ1:1−4。

聖書は、歴史を書いているのです。オックスフォード大学文学者哲学者C.S.ルイスは、聖書の話を“事実の神話”と言いました。歴史事実起こった“神の話”は“福音の歴史”とも言えます。

パウロは、この福音をこう書きました。「らせ(福音)とはほんとうは何なのか、思いしてほしいのです。 というのも、それはしもしていず、以前あなたがたに宣べ伝えたらせと同じものだからです。。。。私はまず一に、かつて自分もらされた、のことを伝えました。 すなわち、キリスト様は、聖書されているとおり、私たちの罪のためになれ、 られたこと、そして言者たちの告どおりに、日目にの中から活されたことです。 キリスト様はテロに姿わし、そのあと「十二弟子」のりの者の前にもたれました。 そしてある時には、人以上のクリスチャンの前にも、姿をお見せになったのです。」聖書1コリント15:1−6。

日本の作家三浦綾子は、福音を“聖書のエッセンス”と書きました。人類全てもそうですが、個人もそうです。私達に事実本当の罪の問題があるのです。ですから、神様は、私達のために事実本当の解決— 福音— を下さったのです。それは、主イエス・キリストと言うお方を通してです。イエスは、私のようなものの罪を負い、十字架上で身代わりとなり、裁かれました。しかし、神であるからこそ、三日目に復活しました。この方が私達の救いの源です。

これが真実のイエス・キリストの姿です。

[参考 ダ・ヴィンチとイエスー本物は?]

Tuesday, May 19, 2009

天使と悪魔〜 聖書と科学の対立?


5月18日、家内と私は、天使と悪魔を見に行きました。良いデート♡でした!しかし、疑問になる事もいくつかありました。

※天使と悪魔の本当の訳は、天使と悪霊(demons)です。この文書で”A & D”と言う省略を使います。

A & D で、ローバート・ラングドン博士はこう言いました。「歴史のはじまりから、科学と宗教との間に大きな淵が存在している」(”From the beginning of history, a deep rift has existed between science & religion,” Robert Langdon)

本当に歴史のはじまりから聖書と科学は対立しているのでしょうか?

★ 先ず、A & D の歴史性に課題が多いのですもちろん、著者ダン・ブラウンが語っているように「小説」(fiction)です。しかし、彼は、歴史の真実を語っているかのようにキリスト教界の一部(カトリック)の科学に対する態度を批判しています。


実際、教会は、イルミナテイ(Illuminati)のひとりも殺しませんでした。ガリレオは、残念ながら教会によって裁判にかけられ、家で監禁させられました。しかし、科学者が厳しい避難(censure)を受けた事は珍しかった事で、殺されたのは一人もいません。逆に、当時のほとんどの大学や病院は、教会によってはじめられました。

トム・ハンクスは、映画の素晴らしいセリフを引用しました。スイスの護衛隊がラングドン博士にこう言います。「私の教会は、飢えた人々に食べ物を与える。私の教会は、貧しい人と死を迎える人に手を差し伸べます。あなたの教会は何をしていますか?そうだった。あなたには、教会がないのです。」My church feeds the hungry. My church cares for the poor and dying. What does your church do? That's right—you don't have one.)キリスト教を避難する人に問いかけているようです。確かに、教会には、課題があるが、世の中の問題を多く解決しようとしています。逆に、あなたは何をしているのですか?

★ 次に、本当に歴史のはじまりから聖書と科学は対立しているのでしょうか?問いたいです。次の科学者達は、聖書や、キリスト教が科学を生んだと言っています。

アルフレッド・ホワイトヘッド(1861−1947)やロバート・オッペンハイマー(1904−1967)は、キリスト教がキリスト教世界観が現代科学を生んだ、と強調した。キリスト教が「神の理性の主張」をしていたからこそ、現代科学の母となったのである、とホワイトヘッドが言いました。聖書の語る通り、天と地が神によって創られ、人間が神のかたちに創られました。神は、秩序と理性の神であるから、科学者は、神が与える自然と法則を観察し、研究できるのです。

フランシス・べーコン(1561-1626)は、聖書・創世記3章に記録してある人間の堕落をそのまま信じていました。Novum Organum Scientiarum でこう書きました。「人間は、その堕落によって罪のない状態から落ちたのだけではなく、創造物を治める立場からも落ちた。ここで失われたものは部分的に回復できるだろう;前方は宗教と信仰によって、後方はと芸術(arts)と科学によって。」彼は、聖書の歴史性をも主張していました。ベーコンは、聖書は、徹底して学ぶべき本である、と書きました。

ヨハネス・ケプラー(1571-1630)は、こうのべました。「。。。我が創造主よ、私はあなたに感謝します。あなたの創られたものは私を喜ばせ、あなたの創られたものを私は喜ぶ。。。私は、神が創られた全てのものの数、規模、量を調べる権利、いや、義務がある。神御自身が人間にこの知識に参加できるよう許した。。。」

アイザック・ニュートン(1642−1727)は、日本で主に力学の科学者として知られていますが、ニュートンは、科学よりも聖書について多く書きました。宇宙を創られた神は、聖書を下さった、と確信しました。ニュートンはPrincipiaでこう書きました。「神は永遠で、無限、全能で、全知;と言う事は、神の命は永遠から永遠までで;神の存在は無限から無限までです。神は、全てを支配し、存在しているものと可能性のあるものを全て知っている。」 ジョージ・トレベリアンがニュートンについてこう書いた。「科学的方法(scientific method)と聖書(その歴史と奇跡を重んじる宗教)は相反する結論に達するとは思わない。科学者ニュートンは、その信仰において生きて、死んで行った。」

ブレーズ・パスカル(1623−1662)は、人間の原罪と堕落を信じながらも、人間は、特別で、イエス・キリストが十字架上で罪人のために死なれた事を強調しました。

電磁気学に貢献したマイカル・ファラデー(1791−1867)は、こう書いた。「聖書が語る事について私達が語る。聖書が語らない事について私達は語らない。」これら科学者にとって、聖書と科学の対立は存在しなかったのです。

★ 最後に、科学を”神”のようにする事は非常に危険です。科学は、良いものもしてきましたが、悪いこともしてきました。広島に住んでいた私は、何回も原爆ドームと資料館に行きました。長崎と広島の悲劇を作ったのは”科学万能”の哲学です。

人間は、徐々に神を社会から除こうとしました。その結果、神に創られた人間をも除くようになったのです。人間は、単なる動物と機械として見られるようになりました。「神が死んだ」と言われましたが、実際は、人間が”死んだ”のです。聖書にあるように、「愛が冷え」てきたのです。


この人間の動物化・機械化の中心人物は、進化論を研いだチャールス・ダーウィンでした。進化論が生んだのは、”社会的ダウィニズム(social darwinism)”で、人種差別でした。



その悪の頂点は、第二次世界大戦に見えます。ゲシュタポの指導者ハインリヒ・ヒムラー(1900−1945)は、強いものが生き残ると言って、ユダヤ人を含める1億人以上の人を虐殺しました。極悪人アドルフ・ヒットラーは、何回もこう言ったそうです。「キリスト教とその愛を強者生存の道徳に変えるべきだ。」


女性の差別も影響しました。マルキ・ド・サド(1740-1814)は、La Nouvelle Justineでこう書きました。「自然は、男性を一番強いものにしたから、女性に好きな事をしても良い。」道徳や、価値観がないのです。ジョン・ポール・サルトルは、(1905ー1980)絶対的な基準がなければ善悪の基準がない、と書きました。”弱者”は、悪用されます。


科学万能の哲学は、人間をただの分子にしてしまうのです。ジョージ・ワルドは、こう言ったそうです。「四〇〇年ほど前に、ハムレットを書いたシェークスピアと言う分子の固まりがいた。」この科学者にとって、人間が「神に似せてつかられた人」でなくなっているのです。

現在の世界は、ダウィニズム世界感に生きようとする世界です。アメリカは、”経済的強者生存”で、日本は、”教育的強者生存”です。人格的な神の居場所がないから、本当の人間の姿が見えなくなり、本当の愛や、自由や、意義の’居場所’がないのです。

結局、科学万能の世界では、人間は、絶望に落ちるしかありません。ダ・ヴィンチ・コードのレオナルド・ダ・ヴィンチがその一人でした。また、日本にも多くの引きこもり、自殺、うつ病の方がいるのも、聖書が明言する人格的な神とイエス・キリストの十字架の愛の’居場所’が少ないからです。


アルバート・アインシュタインの言葉に知恵があると思います。「科学と宗教との間に本当の対立は存在しない。」宗教は、科学から学べるし、科学は、宗教から学べるのです。

科学と宗教の間に多きな淵はないのです。しかし、科学者である人間は、神を彼らの世界観から除こうとした時から、人間は、本来のあるべき人間の姿から遠のいて行きました。その結果は、絶望に導くだけです。

聖書・詩編19:1「天は、神様の栄光を物語る」とあります。自然界を見て、部分的に神の栄光が分かります。聖書を読んで、さらに詳しく神が分かります。聖書でイエス・キリストを見て、また神とそのあふれる恵みが分かるのです。

[参考 フランシス・シェーファー博士]

Sunday, May 17, 2009

空の空 (3)


「日の下で、どんなに苦労しても、それが人に何の益になろう。」
聖書・伝道者の書1:3

「日の下」(英under the sun)と言う句が伝道者の書に30回以上書いてあります。伝道者の書は、この世の現実を主に人の目から見ています。この世は、空の空で、空しい、と書いてあります。

しかし、私達は、”日の下”の角度より”日の上”の角度からもの事を見る必要があります。

「日の上」の角度は、天地を創られた神の角度のことです。すなわち、聖書の角度です。神の目からものごとを見ると、苦しみは無くなりませんが、その苦しみに意義があると分かりはじめます。

もちろん、私達は、「日の下」の現実(reality)をしっかり見る必要があります。しかし、違う次元からもの事を見る必要もあります。もう一つの現実(reality)、いや事実(fact)と真実(truth)を見る必要があります。


それは、天と地を創造した神が存在していることです。この方御自身が私達の満足、希望と意
義です。あるミシガンの教会の看板にこう書いてありました。Christ, our hope! キリスト、我が望み!

「日の下の現実を真正面からとらえつつ、天の御国を望む。『日の下』の悲しき人間の限界と、やりきれない現実を見つめながら、御国を望める我れらなのでした!」小畑進

『主よ、あなたは私達をご自身のために創られました。私達は、あなたに安らぐまで、決して安らぐことはないのです。』聖アウグステヌス。

この創り主の目からものごとを見るのです。聖書がこの方を現し、聖書がこの「日の下」の意義を教えて下さいます。

Wednesday, May 13, 2009

Kaka, I belong to Jesus


"I belong to Jesus." Kaka 訳:「私はイエスのもの」カカ Wikipedia 『敬虔なクリスチャンであり、愛読書は聖書、好きな音楽はゴスペル、座右の銘は聖書の言葉の「神に忠実なれ」である。』Wikipedia

Monday, May 11, 2009

人間は、もろい葦?


「人間は、自然のうちでもっとももろい葦でしかない。しかし人間は考える葦である。」ブレージ・パスカル

※ 日本でパスカルの ”人間は考える葦である” と言う引用を良く聞くが、その前に来る ”人間は、自然のうちでもっとももろい葦でしかない” を聞いたことはない。私のブログのヘッダーを読んで欲しい。パスカルは、こう考えていたと思います。”人間は考えながらも、人間の思いは葦のように弱いので、神の思い<聖書>が不可欠である。”』 三浦綾子は、聖書のエッセンスはGood News、すなわち福音、または、キリストの良き訪れ、である。Good news & bad news 両方を聞くべきである。聖書でこれは、’原罪’として表している。私達は、都合の悪い真実も聞き入れ、自分の高慢を捨て、新たに人間の弱さを心にとめるべきである。