Thursday, November 18, 2010

「父の愛、神の愛」1


高瀬キリスト教会にて 2008/04/06

(写:左〜安藤眞里&家内の奈帆)

こんにちは。安藤眞里と申します。私の父がこの家の長男として生まれ、私の子供の頃は、私たち家族は高松に住んでいました。お正月や夏休み、春休み、また連休などには、親孝行であった父は、たびたび私たちを連れてこの高瀬の音田に遊びに来ていました。

すでに祖父母が亡くなり、私の父も召されて20年、母が召されて4年が経ちますが、このような形で、私が高瀬に戻ってくることがあるとは、夢のようです。

現在は、ジャンカー宣教師ご一家が、この家を教会として神さまの福音を伝えるために働いていてくださっています。また子供の頃から馴染みの近所の親類も、私と同じように年を重ねて、今も健在でいてくれます。

今は高松-高瀬間も、高速道路を利用して車で1時間で行き来できるようですが、昭和30年台頃は、高松駅から煙を吐く黒い蒸気機関車で善通寺駅まで来て、そこから1時間に一本の大日峠を越えるバスで崖の側をくねくねした道路を恐々と乗っていたことを思い出します。鳥坂といいましたか、この上の火の見やぐらのところの先に、バス停留所がありました。そこからはこの家まで歩いて10分ほどでしたが、高松から2時間以上かけて、この家を訪ねて来ていました。

私にとっては、高松とともに、この音田は、小さい頃から家族で過ごした思い出深い、懐かしい大切な古里です。

祖父が昭和49年(1974年)に亡くなってからもう30年が過ぎますが、その間母が定期的に掃除に通っていました。私も、帰省のたびに母と共に、この家を訪れていました。いつしか、この家をいつまでも閉め切った空き家にしているのはほんとうにもったいないと思うようになり、この家も神さまのお役に立てることができればと、来る度に祈るようになりました。

ここで、少し父の話をしたいと思います.。父は若い頃結核を煩って長く闘病生活をしましたが、何度も生死の間をさまよう経験をして、その後の人生の価値観が作られたと思います。内村鑑三、新渡戸稲造などキリスト教の信仰者から大きな影響を受けていたようでした。よく言われたことばですが、「悠久の今」、永遠の時間の中で、今すべきことに最善を尽くすという考え方でした。私の知る所においては、人間を差別しないで、人の悪を批判しない人でした。(父の心の中のことは、神さまがすべてご存知ですが、子供の私にはそのように見えました。)

私は妹と2人姉妹ですが、私は父の40歳の時の初めての子供で、大変可愛がられて育ちました。厳しく叱られた思い出も少しだけありますが、ほんとうに優しく寛容で懐の大きな父を、私は大好きで尊敬し、ある時期までは神さまのように思って大きくなりました。

次に、私自身の信仰をもつに至るまでのお話しをします。

母は私が小学生の時にカトリックの洗礼を受けて、母の薦めであり、また父も賛成してくれて、高校と大学は、キリスト教のミッションスクール(岡山のノートルダム清心)に入学し、寮生活をしました。

そこでの7年間に、私は聖書の教えの環境の中で過ごし、後にほんとうの天地創造の天の神さまに救われる下地を養われたと思います。実は、高校時代にキリスト教の洗礼を受けていたのですが、まだ聖書も罪も、神さまを恐れることも祈りも知らないものでした。

小さい頃から、親にも学校の先生にも可愛がられて、常にいい子を通してきた私も、大学卒業の頃には、本当の自分の気持ちや感情を表に出すことが下手で無意識にストレスから、いつしか私の神経は傷ついており、卒業と同時に、心を病んでしまったのです。

実家に戻ってから、私はとうとう眠れなくなり完全におかしくなって、父と母は、どれほど心配したことでしょう。両親は、私を自由にのびのびと育てたつもりでしたが、私は大学は出たものの、精神の病を患っていました。

その時、私はそれまでの人生で経験したことのない真っ暗闇の中で、深い深い精神的な苦しみの中を放浪していました。その苦しみの中から、なんとかして元気に普通の生活に戻りたいと心から願ったものです。この時の経験は、もう学歴も、地位や名誉も、財産も、お洒落もご馳走も大きな家も何もいらないと、本気でそう思いました。健康な精神と心と体がほしいと懇願する思いでした。この時の気持ちは、それまでの私の価値観を180度変えてくれたといってもいいでしょう。

それまでは、人より少しでもより高いもの優位に立つことを求めていたように思いますが、平凡でいられることは、なんという幸せ、それ以上のものを求めることは、私にとってあまり価値がないように思うようになりました。

それまで少しは持っていた自分の自信はどこかへ行ってしまい、なんと自分は弱い者であるかということを、いやというほど知らされました。それまで、私は弱いなどという言葉さえ口にも出したことがない傲慢な人間でしたが、自分の弱さを徹底的に知らされたことは、すばらしい恵みであり、この病は私には無くてはならなかったものであったとほんとうに感謝しています。(自分の弱さを知らず、また認めようとしないことほど、哀れなことはないと思います。)

私は人の目が気になり、人にどう思われるかということが、とても気になる人間でしたが、社会的な立場を気にしなくなったことがそのことから解放されるきっかけになってこの病からひとまず抜け出ることができたように思います。「人を恐れると、罠にかかる。」という言葉は真実です。

しかし、まだこの頃は、神さまを信じるまでには至っていませんでした。

主のあわれみにより、24歳で結婚し、横浜に住んで35年が経ちました。(年がわかってしまいましたね。)

初めは社宅に住んで、そして5年後、昭和53年(1957年)、今の横浜市緑区鴨居に引っ越しました。すぐ近所に、プロテスタント教会の家庭集会が開所したばかりでした。神さまは、私の引越しにタイミングを合わせて、教会をすぐ近所(歩いて2分の所)に開いて待っていてくださったのでした。

それまでカトリックの学校や社宅時代にしばらく学んだものみの塔を通しても、私は聖書にはとても魅かれていました。また2人の息子の育児をする中で、子育ての価値観の基準になるものを、探していました。

私は、聖書をもっとよく知りたいと思い、導かれて「聖書を読む会」に入れていただきました。ここでのSYKのテキストの学びを通して、聖書を楽しみ喜んで学び進めました。聖書の真理を疑うことができない思いがありましたが、そこでもまだ、自分の罪とイエスキリストの十字架の意味が頭の理解でしかありませんでした。それから何年も学び続けて、礼拝にも出ていたのですが、ある時、自分の罪深さを思い切り知らされる出来事を経験させられました。

私は3人目の子(娘)の子育て中でしたが、子供の友だちのお母さんとのお付き合いの中で、どうしても自分の本心を表わすことが出来ず、表面ではいいお付き合いをしているようでも、内心はとてもそのお付き合いが苦痛でしかたありませんでした。話し合うこともできず、自分の姿勢をはっきり示すこともできず、ただ表面上は仲良くお付き合いして相手に不誠実である自分の心の偽りが、はっきり神さまに示されて、自分の罪を体中で感じてその重さに打ちのめされるほどでした。人類一人一人の罪の身替りになって十字架にかかってくださったイエス様のことを知らなければ、立ちおおせないほどでした。この時に、私はこれま学び続けていたイエスさまの十字架は、私の罪のためであったということをはっきりと実感として知らされて、悔い改めの洗礼を受ける決心に導かれました。

Ⅰコリント123b「聖霊(神)によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません。」(この時、聖霊が私に働いて、罪を示されたのだということが、後でわかりました。)

受洗から16年が経ちますが、かもい聖書教会の教会員として、信仰の歩みをさせていただいております。

続く。。。