「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい。財産がふえると、寄食者もふえる。持ち主にとって何の益になろう。彼はそれを目で見るだけだ。働く者は、少し食べても多く食べても、ここちよく眠る。富む者は、満腹しても、安眠をとどめられる。私は日の下に、痛ましいことがあるのを見た。所有者に守られている富が、その人に害を加えることだ。その富は不幸な出来事で失われ、子どもが生まれても、自分の手もとには何もない。
母の胎から出て来たときのように、また裸でもとの所に帰る。彼は、自分の労苦によって得たものを、何一つ手に携えて行くことができない。これも痛ましいことだ。出て来たときと全く同じようにして去って行く。風のために労苦して何の益があるだろう。しかも、人は一生、やみの中で食事をする。多くの苦痛、病気、そして怒り。
見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」聖書・伝道者の書5:10ー20
ある方は、残念ながら、今も、バブルが崩壊した後でも、富みによって、幸福を得ることが出来ると思っているのです。本当にお金を得て、本当に幸福になれると思うのでしょうか?富の限度が分からないのでしょうか?富が自分を救えると思うのでしょうか?富みを愛することによって、失望している人が多くいるのではないでしょうか?
金銭を「愛する者」は、どうなるのでしょうか?その悲しい結果がソロモン王によって記されています。「。。。収益に満足しない。。。財寄食者もふえる。。。安眠をとどめられる。。。富が、その人に害を加える。。。」「これもまた、空しい」とソロモンは嘆くのです。「全ては空。。。空の空」です。富や金銭を貪る(むさぼる)ことを含めて。
「いったい、どっちが主人なのか、という。」富を貪っている人が主人なのか?人を滅ぼしている富が主人なのか?自分がコントロールすべき富みは、自分をコントロールしているのです。
ハワード・ヒューズは、20世紀を代表する大富豪として知られ、「地球上の富の半分を持つ男」と言われました。彼の残した財産は、天文学的な数字でありました。天才的な大富豪として富と名声を得たましたが、その晩年は孤独でありました。彼は、麻薬に取り付かれ、細菌恐怖症になりました。悲劇ですが、彼は、孤独の中に死んでいきました。死んだ時、190センチあった体は、45キロでした。富は、幸福を与えることは出来ないのです。富を貪るヒューズのような「人は一生、やみの中で食事をする。多くの苦痛、病気、そして怒り」にある、とソロモン王が書いています。
富の意味と本質をわきまえなければならないのです。富には限界があるのです。人間は、富によっては救われません。ですから、ソロモン王は、こう書いています。「痛ましいこと」ですが、「自分の労苦によって得たものを、何一つ手に携えて<あの世へ>行くことができない」のです。「裸」で「母の胎から出て来たときのように」、「裸で。。。<あの世へ>去って行く」のです。
エジプトのパラオ、中国の陛下とインカの王のお墓を考えさせられます。彼らは、皆、「裸」で生まれました。しかし、お墓の発掘によって分かることは、その国々の君主は、“あの世”へ富みを持っていける、と思っていたことです。その君主と共に墓には、“あの世”で仕えると思っているものが多く置かれていました。ある墓には、共に生き埋めされた妻や召使いの遺体もありました。悲しいです。いや、聖書は、「空しい」と断言しています。富は、あの世へ持っていけないのです。
富をあの世へもっていけないので、労苦や富の意義と本質を良く考えなさい、と言うことです。『富は一時的なもの』であることを考えもしないで、ただひたすら労苦にのめりこむのは空しいのです。正に、「骨折り損のくたびれ儲け」です。しかし、真に神の栄光のためになら、隣人愛のためになら「骨折り得(とく)の天国儲け」であります。
富と労苦を含めて、全ては「神の賜物」であります。『神』が許している、『神』が与えている、と実感すると、真の「好ましさ、。。。幸せ、。。。楽しみ、。。。喜び」があるのです。「まさしく、今、自分から神を仰ぐ目を落としたとしたら、人生に目的が全く無いことに驚く。神むくいたもうと知らなければ、労働は苦痛のみ。『骨折り大損のくたびれ大儲け』となるばかり。神統(す)べ治めたもうと知ることなければ、世界も、宇宙も、無意味、無意義。ましてや神なくんば宗教などナンセンスよ。。。。神という一枚のカード抜きでは世界も人生も空の空の風が吹き抜ける。神を神とする時、一切をみそなわす神あって、富の何たるかをわきまえ、労働の価値を知り、人生の秘義を解して、宗教の醍醐味(だいごみ)を味得する、という境地でしょうか。」小畑進。「神を神とする時」極めて恵み深いお方を知り、富みに勝る富と宝を知るのです。
私たち人類は、富を通して自分を救おうとしているのです。働いて自分が得たと思っている富を通して自分の価値を見いだし、人の賞賛を自分のものにしようとしているのです。しかし、富は、消えていくのです。富は、この世であっても人を救えないし、もちろん「あの世」であっても救えません。
真の救い主は、唯一、主イエス・キリストです。イエスは、十字架上で私とあなたのような罪人の身代わりとなったのです。十字架上でイエスは、人の罪を負って裁かれ、それによって人は救われるのです。「むなしい生き方から贖い救い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、。。。キリストの尊い血によって贖い救い出されたのす。」聖書・1ペテロ1:18 イエス・キリストは、金銭によって買えない真の幸福を、自分の命を十字架上で代価にして、人々のために勝ち取ったのです。
イエス・キリストの十字架の恵みを心(しん)に知ると、富から解放され、富を手放し与えることが出来はじめるのです。富が来た源—神—へと帰すのです。隣人に、特に貧しい人々にまわすのです. 聖書・ガラテヤ2:10に「貧しい人たちをいつも顧みるように」とあります。神を無視し、富を握ると、全て失うのです。富を手放し、イエス・キリストの尊い恵みを握ると、与えることが出来、真の富、天そのものを喜べるのです。<写真:クリック>