聖書・伝道者の書 5:1-7「神の宮へ行くときは、近寄って聞くことは、愚かな者がいけにえをささげるのにまさる。彼らは自分たちが悪を行っていることを知らないからだ。神の前では、軽々しく、心あせってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。仕事が多いと夢を見る。ことばが多いと愚かな者の声となる。神に誓願を立てるときには、それを果たすのを遅らせてはならない。神は愚かな者を喜ばないからだ。誓って果たさないよりは、使者の前で「あれは過失だ」と言ってはならない。神が、あなたの言うことを聞いて怒り、あなたの手のわざを滅ぼしてもよいだろうか。夢が多くなると、むなしいことばも多くなる。ただ、神を恐れよ。」
私の家内、奈帆、はどちらかと言えば、話をよく聞くタイプです。私は、小さい頃から、おしゃべりでした。”Babling ape”(おしゃべり猿)と良く言われました。でも、ソロモン王は、「多くの言葉には空しさがある」と言っています。特に、創り主の前に行く時、「聞きないさい」と言っています。
ソロモン王は、伝道者の書1章に「空の空、全ては空」と断言しました。なぜ「全ては空」なのでしょうか?世間の「日の下」の角度だからです。「日の下」の角度は、創り主とその思いを重んじないから空しいのです。逆に、私たちは、「日の上」の創り主の角度からものごと見なければなりません。ここに本当の意義があるのです。。。 ですから、ソロモンは、創り主の視点を聞きに「神の宮に行く」のです。教会に行くのです。
しかし、「神の宮へ行くときは、自分の足に気をつけ」、注意して行かなければならない、と呼びかけています。それは、創り主に「近寄る」時、「聞く」ことが最も重要なのです。逆に、創り主の前に行くとき、「軽々しく、心あせってことばを出すな。ことばを少なくせよ」とも言っているのです。
なぜ創り主の前に行くと、言葉に注意をしなければならないのでしょうか?「神は天におられ、あなたは地にいるからだ。」真の神は、私たちの周りにある神々と違うからです。狐、太陽や、山の神々と違うのです。野球、サッカーやバスケットボールの神様と違うのです。仏と違うのです。存在している創り主は、超越した方です。宇宙や私たちを創られた方は、無限で、永遠で、全能です。私たちは、あまりにも小さなものです。創り主は、決して軽んじてはならないお方です。注意深く耳を傾けなければならないお方なのです。
また、伝道者の書のポイントの「空の空」に戻ると「多くの言葉は空しい」と思い出すのです。「多くの言葉」は、「全ては空」の中にも含まれています。ですから、創り主に近寄る時、先ず、自分の思いを創り主に語るのではなく、創り主の思いを聞くのです。「日の下」の空しい言葉を語るのではなく、「日の上」の意義ある創り主の言葉に耳を傾けるのです。世間から意義について学ぶことが出来ないので、創り主御自身から、創り主御自身にあって、全てに意義があることを学ぶのです。
「ただ神を恐れなさい」と終わっています。自分の小さな「夢」や「計画」を創り主にぶつけるよりも、唯一の神を全ての創り主として恐れ敬い、神の崇高な「夢」と「計画」を心に留め、抱き、自分のものにするのです。
私たちは、創り主の思いを自然界からは十分に学べません。やはり、聖書— 神の御言葉— がなくてはならないのです。聖書を個人的に読むことも出来ます。しかし、ただ個人的に読むと、自己解釈の恐れがあります。創り主からのインプットが必要です。ですから、特に、プロテスタント教会では、礼拝の中で、神のみ言葉<聖書>とそのメッセージ(説教)が中心です。私たちは、先ず「近寄って聞く」のです。それで、また、讃美したり、祈ったり、話し合ったりするのです。
「世の宗教者どもよ、ヤソどもよ。聴く耳あらば聴くべし。聴きて答えうべくんば答うべし。」小畑進。神社や、お寺に行くと御利益を神仏にお願いします。人の言葉です。お金を賽銭箱に入れて、手をあわせて、祈願します。自分の「夢」や「計画」がベストだと思うのです。教会は、先ず、「近寄って聞く」場です。創り主の恵み深い御言葉<聖書>を聞いて、創り主の「夢」や「計画」を自分の心に留め、『主の祈り』にあるように「あなたの御心が天で行われるように、地上でも行われますように」と祈るのです。