2010.2.14、高瀬キリスト教会 1コリント13章
浜島敏師
しかし、愛の大きさは、そのために払うことの出来る犠牲の大きさに比例するのではないでしょうか。愛する人のためには犠牲を厭わない。一番純粋な愛は親の愛だと良く言われます。親は子供のためには犠牲を払うことも厭わない。自分の食事を減らしてでも子供に食べさせることが出来るのです。自分の健康を犠牲にし、臓器を提供することもできる。ところで、一番大きな犠牲とは何でしょうか。それは命です。友のために命を捨てる、それより大きな愛はない。とイエス様は教えられました。ヨハネ15:13
一つの感動的な実話があります。ある裁判官が一人の重罪人を裁いたことがありました。犯罪人が審判台に立って裁判官を見ると、それは自分の双子の兄でした。裁判官も、自分の弟が犯人であることに気づきました。犯人は心から赦されることを兄に懇願しました。ところが、裁判官の兄は厳しく罪を裁き、すぐに彼を投獄するように命令しました。そして翌朝には、彼は死刑にされることになったのです。ところが、夜中に急に裁判官が制服のままで、獄にやって来て、その犯人である弟に驚くべきことを言ったのです。「私は裁判官である以上、法律に違反することはできないので、お前を罪に定めた。今、私がここに来たのは、兄としてお前を救いに来たのだ。急いで、お前の服と私の制服とを取り替えて、ここから出て行きなさい。門にいる看守はお前を出してくれるだろう。お前は、遠方に行って、心を入れ替えて新しい生活をしなさい。二度とこのような罪を犯してはいけない。さあ、早く行きなさい!」そして、その裁判官は翌朝、弟の身代わりになって死刑を執行されたのであります。今ではそんなことはないでしょうが、実際に起こったようです。そして、その二日の後、このことが全市に知れ渡り、人々の大きな感動を呼んだということです。
実は、神様がしてくださったのは、ちょうどこういうことなのです。人間は罪を犯しています。人間は神様の言いつけを守らない、言わば神様の敵でした。罪など無いと言う人もいます。確かに、法律で裁かれるような罪は犯していないかも知れない。しかし、胸に手を当ててよく考えてみてください。自分の今までの行いが、その思いまで含めて全部記録されていたとします。それが再生されて見せられたら、楽しんで見られるでしょうか。止めてくれと叫びたくなるのではないでしょうか。エンマさんは、エンマ帳に私たちの行った悪い行いを全部記録しているそうです。しかし、神様の記録はもっとすごい。神様のビデオはもと性能がいい、行いだけでなく、心で考えたことも全部記録されている。とても人には見せられないし、自分も見るに堪えない。そんなのが人間です。しかし、神様はそんな罪人を愛してくださって、死刑にしたくない。何とか救う方法はないかと考えられ、自分の一番大事な息子を身代わりに死刑にすることでした。そして、その息子こそイエス様であり、その死刑が十字架でした。人間が神様のもとにいけるため、即ち天国に招くためです。神様に逆らっている人間は、もともと天国などには行けないたのです。しかし、その道を開くために、イエス様をこの地上に送ってくださった。イエス様はたくさんの素晴らしい教えをしました。でもそれだけだったら、他の人にも出来たかも知れない。それが最終目的ではなかった。あなたのために死刑を甘んじて受けること、それが目的でした。人間と神様とが和解するためです。最も大きな愛。友のためどころか、敵のためにさえ、自分を犠牲にされたのです。十字架で苦しんでいるイエス様を見上げてください。本当は私がかからなければならない十字架だったのです。しかし、神様は犠牲を惜しまなかった。人を愛しておられるからです。その愛に答えようではありませんか。どうしたら良いですか。別に何もする必要はありません。感謝をして、「罪人の私を許してください」。それで十分です。あなたもその変わることのない素晴らしい愛を手にすることが出来るのです。「われわれが神の敵であった時でさえ、御子の死によって、われわれを御自身と和解させて下さった」のです。(ローマ5:10)