2010.2.14、高瀬キリスト教会 1コリント13章
浜島敏師
愛する人に裏切られたから愛などない方が良い、という人は、その本当の愛をまだ知らないからです。愛もなかなか手に入らないので、愛などもう要らない。お金があればいいという人がいるかもしれません。また快楽を求めたりする人もいるでしょう。飲め、食え、楽しめと。しかし、お金では愛は変えませんし、快楽も長く続くことはありません。むしろ後は空しくなるのです。聖書に次のような言葉があります。今から3000年ほど前、最も知恵があり、最も豪華な生活をし、贅沢の限りを尽くしたソロモンという王様がいましたが、彼は聖書の中で次のように言っています「たとい全財産をはたいても、愛を買うことはできません」(雅歌8:7)と。また、彼はあらゆる快楽を経験しましたが、晩年になってそれを振り返って、「空、全部空で無意味だ」(伝道1:2)とも言っています。愛は何ものにも変えられないものなのです。
では、そんなに大切なのに、手に入りにくい愛とは一体何でしょうか。愛を見せてくださいと言われたら、見せられますか。残念ながら愛は見えません。が、考えてみると、私たちは目に見えるものばかり追いかけていて、実はもっと大切な目に見えないものがあるのに、それに気づかないか、気づいてもそれを無視しているのではないでしょうか。私たちは目に見える「一時的なもの」ではなく、目には見えないけれども、むしろ「永遠に至る」ものに目を留めるべきです(2コリント4:18)と聖書は忠告します。
愛にも実は一時的な愛と永遠に続く愛があります。よく、教会では愛には3種類とか4種類あると言われますが、そのことは今日はお話できません。ユダヤ人の知恵であるミシュナーという本では、愛を二つに分けています。「何かに依存している愛は、そのものが無効になれば、愛も無効になる。しかし、何にも依存しない愛は、永遠に無効にならない。」と言っています。他人に頼る愛、これは一時的です。結局はこの愛は裏を返せば、見返りを求める愛、自己愛の変形でしかありません。無償の愛こそ永遠に続く本当の愛なのです。しかし、人は何ものにも依存しないではいきて行けません。ですから、実は何に依存するかが大切だといえます。もともと変わらないものに依存していれば、その愛は不変です。あの人こそはと思っていても、裏切られるのです。人とか物に頼るのは愚かなことです。鼻から息をする者に頼ってはなりません。変わらない神に依存してこそ変わらない愛が持てるのです。
愛は見えませんが、愛の働きは見えます。電気と同じです。電気を見た人いますか。電気も実は見えませんが、その働きは見える。熱になったり、光になったり、力になったりして、私たちにその恵みを与えてくれます。愛もその働きによって分かります。愛そのものは見えませんが、その働きは見えます。お父さんが働き、お母さんが食事を作るのも家族を愛しているからです。
では、愛はどのような働きをするでしょうか。1コリント13章は愛がどんな働きをするか教えてくれます。愛は優しくて、親切です。反対に自慢したり、威張ったり、すぐに怒ったりしないし、自分さえ除ければ良いなどとも思いません。人と仲よくできます。喧嘩をしません。喧嘩をするのは愛のない証拠です。愛があると憎らしいと思っていた相手と仲直りをし、彼を許すことが出来ます。