Sunday, January 31, 2010

「空の空」8


聖書・伝道者の書3:12−22 「私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを。私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。神は、すでに追い求められたことをこれからも捜し求められる。

さらに私は日の下で、さばきの場に不正があり、正義の場に不正があるのを見た。私は心の中で言った。「神は正しい人も悪者もさばく。そこでは、すべての営みと、すべてのわざには、時があるからだ。」

私は心の中で人の子らについて言った。「神は彼らを試み、彼らが獣にすぎないことを、彼らが気づくようにされたのだ。」人の子の結末と獣の結末とは同じ結末だ。これも死ねば、あれも死ぬ。両方とも同じ息を持っている。人は何も獣にまさっていない。すべてはむなしいからだ。みな同じ所に行く。すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る。だれが知っているだろうか。人の子らの霊は上に上り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。

私は見た。人は、自分の仕事を楽しむよりほかに、何も良いことがないことを。それが人の受ける分であるからだ。だれが、これから後に起こることを人に見せてくれるだろう。」


私を含めて世界の不況で辛い思いをしている人は多いと思います。しかし、私は、今の不況は、良いチャンス(好機)で、神(創り主)の恵みだと思うのです。私たちの多くは、仕事や、教育にのめり込んでいます。忙しくて忙しくて、大事なことを考える時間もないのです。しかし、「忙」と言う漢字の通り、忙しいは、「心」を「亡くす」事です。個人も、国も、経済的にダウンしているから、何が本当に大事なのか、考えるチャンスです。教育のためにお金が足りないので、その与えられた時間で、本当に大事なことを考える好機です。

上の伝道者3:12−22の文脈を読むと、「時」と言う言葉が鍵です。‘今‘と言う時に恵みがある、と教えています。それは、神ぬきでは、仕事と教育を含めるもの全ては「空しい」のですが、全てのことを「神の賜物」<神の与えた恵み>として見ると、「食べたり飲んだり」する時だけではなく、「全ての労苦。。。仕事」の時をも「喜び楽しむ」ことが出来るのです。私たちに対して「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」のです。

また、私たちが十分理解できないような“神の時”があるのです。しかし、11節「神はまた、人の心に永遠を与えられた。」他の自然界の全てと違って、人間は、ある程度、神や神の時を理解できるのです。一、私たちは、人間は、自分が時(時間)と言うものに制限されていると分かりますが、神御自身に初めがなく、終わりもなく、永遠な存在であることを心の奥底で分かるのです。二、私たち人間は運命や‘宿命’と言いますが、神が、神御自身の時(タイミング)によって全てのことを摂理を持って定めてあることを感じると思うのです。三、私たちは、この世の悪や罪に対して悲しみ怒りますが、最終的に、人間の裁きが届かなくても、その悪や罪は、時が来たら神が正しく裁くことを直感するのです。

「歴史は繰り返される」(History repeats itself)と言う言葉を良く聞きますが、神は、自然界、聖書や、イエス・キリストを通してだけではなく、歴史を通して繰り返して、繰り返して人間に、神の永遠性、摂理や正義を教えようとしますが、人間は、人類は、なかなか学びません。同じ過ちを繰り返して繰り返して犯します。‘以前の時’にしてしまったことを‘今日という時’にしてしまうのです。しかし、歴史を通して神とその永遠性、摂理や正義を学ぶ者は、神が偉大なお方として信じ、恐れ、敬う者になるのです。

常に神は、人々を「裁き、。。。試みます。」「神は彼らを試み、彼らが獣にすぎないことを、彼らが気づくようにされたのだ。」ある科学者は、“人間は動物に過ぎない、”と間違って言っていますが、確かに、人間の心の奥底を知ると、その言葉を聞くと、その行動を見ると、野獣のように振る舞う時が多すぎます。聖書では、これを‘罪’と言います。その結末は、動物の死と同じです。「人の子の結末と獣の結末とは同じ結末だ。これも死ねば、あれも死ぬ。。。すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る」とあります。罪のゆえに死ぬ時が来るのです。また、その後は、神の正しい裁きが待っているのです。

神ぬきでは、人間は、動物同然すべてはむなしい」のです。しかし、神がいて、全てのものに意味を与えます。確かに人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」神の計画は、小さな人間にとってあまりにも素晴らしいのです。が、それでも「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」のです。

特に、人類の歴史の中で『時』が満ちたのです。歴史上事実、永遠の神が、際立った摂理と恵みを持って、この「空しい」世の中に、裁き主としてではなく、救い主として入って来て下さいました。主イエス・キリストです。この方は、罪人が受けるべき罰を身代わりとなって、受けて下さいました。全てを治める主として復活して下さいました。

『くっきりと十字架模様をバックにして!ただ雑然混沌(ざつぜんこんとん)とした日の下のことを、天の神の眼で見たら、すべて美しい模様を織りなしている!人生の綴れ(つづれ)は、実に錦(にしき)なのであった!』小畑進

この不況の時に、私たちは、静まって、イエス・キリストの偉大な恵みの「神の賜物」を覚える必要があるのです。それによって、私たちは「食べたり飲んだり」だけではなく、仕事や労苦、知恵や教育を含めて、全てを本当の意味で「喜び楽しむ」ことが出来るのです。「これから後に起こること」は分からないミステリーであっても、神がいて、イエスの尊い恵みがあって、人は、自分の仕事や教育を真に楽しむことが出来るのです。

祈り。『主よ。もしあなたがわが人生におられなかったら。生きたというしるしもなく、泡のようにくるくるまわって、それだけという腑甲斐(ふがい)ないものでした。なんとも、憂鬱(ゆううつ)で、たよりないものでした。それが日々、大きなことも、またどんな小さなことも御意の中にある。天国へ導いてくださる一齣々々よと知って、生き甲斐をわきまえております。この手ごたえのある人生を感謝して、一生を歩ませていただきます!』小畑進