Friday, January 22, 2010

キリスト教は「排他的で独善的な宗教だ」小沢一郎


2008年11月10日、和歌山県高野町で、民主党の小沢一郎幹事長は、全日本仏教会との会談後、記者達に自身の宗教観を話しました。キリスト教に対して排他的で独善的な宗教だ。キリスト教を背景とした欧米社会は行き詰まっている」と。

1)私は、日本で生まれ育った者として、驚きながらも、驚きませんでした。日本人のキリスト教にたいする本音がただ出ただけだと思います。しかし、キリスト教は「排他的」でしょうか?ある面で当たっていると思います。仏教を歴史的に見ると、仏教の格宗派も、排他性を強調していました。江戸時代のキリスタン虐殺を学ぶと恐ろしいほどです。

確かに真理には排他性はあるのです。聖書・ヨハネ14:6イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」』昭和天皇から勲章を頂いた父<CFジャンカー>は、カバンに「天下にイエス・キリスト以外救いはない」とあるシールを貼っていました。大事なことは、それは本当で、事実なのか、とう言うことです。“排他的”と言われますが、事実です。

2)また、キリスト教は「独善的な宗教」でしょうか?確かに私自身に「独善的な」罪を持っている時があまりにも多いのです。家内とけんかする時、私は、自分の正当性を強調してしまう時があります。クリスチャンは、聖書と言う誤りのない神のみ言葉を持っているから、自分が正しいと思うときがあるのです。でも、それは、本当は自分が正しいのではなく、神が、聖書が、正しいと言うことです。

逆に、聖書は、全ての人の罪を強調します。それは、クリスチャンを含めてです。また、クリスチャンは、自分の正しさによるのではなく、ただ恵によって、イエス・キリストのあがないによって、神の子供になったのです。クリスチャンは、誇る理由はなく、へりくだるはずなのです(聖書・エペソ2参照)。

イエス・キリストの例えを聞いて下さい。聖書・ルカ18:9−14『自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人(宗教家)で、もうひとりは取税人(不正に税を取り立てた人)であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」』私たちキリスト者は「独善的な」態度を捨て、へりくだってキリストの恵に生き、恵みを与えるべきです。

3)最後に「キリスト教を背景とした欧米社会は行き詰まっている」のでしょうか?「欧米社会は行き詰まっている」可能性はあります。が「キリスト教が背景」だからではありません。私は、丁度今(2009年1月21日)ごろ「アブラハム・リンカーン、信仰と勇気の人」(Abraham Lincoln, A Man of Faith and Courage)を読み終わっています。リンカーンは、世界で尊敬されて来たリーダーですが、彼の原動力は聖書、神、キリスト教でした。奴隷を解放し、国の和解をさせたのは、自分ではないと語りました。「神なくして私は何もなし遂げられなかった」と神に栄光を帰しました。彼は、常に聖書を読み、祈っていたのです。真のキリスト教が社会に素晴らしい豊かな恵みを施します。

小沢さん、キリスト教に対して排他的で独善的な宗教だ。キリスト教を背景とした欧米社会は行き詰まっている」と言って下さってありがとうございます。私とキリスト教会が自分たちを吟味し、自分たちがキリストの圧倒的な恵みに活かされているか確認できます。「神がその愛する御子(キリスト)によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえます」聖書・エペソ1:6。また、その恵みが日本中に注がれますように祈っています。