Tuesday, September 28, 2010

大山茂夫ー イエス・キリストとの出会い



写:私の家内の叔父、大山茂夫、が下の人生体験を私たちの高瀬キリスト教会で話して下さいました。高松の教会のメンバーとリーダーです。


「あなたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選びあなたがたを任命したのです。」聖書・ヨハネ1516


私が、洗礼を受けクリスチャンになったのは、18年前、60歳の還暦の時でした。

当時、商店街でファツション関係の会社を経営していましたが、バブルが崩壊し、多忙な毎日を送っていました。そんな時、妻からコンサートに誘われました。会場が会社の近くで時間も良かったので、気軽な気持ちで参加しました。

それがキリスト教の伝道集会だったのですが、中でもあるクリスチャン歌手の証しと、その後に歌われた賛美が、胸にせまってきました。麻薬と酒におぼれて荒んだ生活を送り家族を顧みなかった彼が、キリストに救われ、心から神を称えている姿に感動を覚え、とうとう三日間続けて集会に参加することになりました。

私は、母と妻がクリスチャンですし、妹二人もクリスチャンです。また、郊外にある私たちの会社の保養所をよく教会にお貸ししていたので、教会、牧師を知らないというわけではありませんでした。しかし、私自身がキリスト教に興味を持つことはありませんでした。

私は二十歳の時、父を心臓病で突然なくしました。母と弟二人、妹二人が残されました。末の妹文子はまだ8歳でした。弟が高校に行きながら、見よう見まねで父が残した仕事を細々と続けてくれたので、なんとか経済的には助かっていたのですが、数年して、その弟が腎臓の病で長期入院することになり、その退院と共に今度は母が結核になり、入院することになりました。当時の画期的な結核の新薬が副作用のため使うことができず、結局、手術することになったのですが、まだ肺切除の手術は始まったばかりで、入院していた病院でも手術第一号でした。まだ40歳前半の母は意外に落ち着いていたように思いますが、私は、手術の承諾書に印を押す時、不安のため、思わず天に向かって祈ったことを思い出します。人間は切羽詰まると何かに祈らずにはいられないもののようです。その後、近くに住んでいた祖母、祖父を相次いで亡くし、葬儀を執り行いました。

20歳から20歳半ばまでは、このように本当に厳しい家庭環境でした。自分の力の限界をはるかに超えたところを乗り切ることができたことに、私はいつも何か不思議な力を感じていました。もちろん兄弟の結束もありましたが、特に親しい人でもない人の好意や、良い機会が与えられたのです。しかし、それがキリスト教に結びつくことはありませんでした。

私は、家族が教会に行くことには反対しませんでしたが、私自身は、父なき後の長男として、仏壇を守ることは責務だと思っていました。息子が大学で県外に行くまで、毎年正月には一緒に神社詣でを欠かさず、仏壇を守り、先祖を大事にすることの大切さを話してきました。

 さて、3日間、集会に参加した後、私のキリスト教への興味、関心は高まってまいりました。そしてある日、当時の羽鳥純二牧師に会っていただき、幾つかの質問をしました。その殆どは、奇蹟に関するものでした。聖書には処女降誕、復活などさまざまな奇蹟が語られています。科学時代にあまりにもバカバカしいと思い、キリスト教をどうしても受け入れることができなかったからです。

「初めに神が天と地を創造した。」創世記の11節です。羽鳥牧師は私に「貴方はこれをどう思いますか」と逆に質問されました。私は「はい、そうだと思います」と答えました。私は、創造が偉大な意志によってなされたことは、理解できたからです。逆に人間を含む宇宙万物が、偶然の産物とは思えなかったからです。「貴方は、万物を創造された神がなされた奇蹟を信じることはできませんか」。目にうろこでした。まだまだ分からぬことは沢山ありましたが、その夜から祈祷会に参加することになりました。

それから数ケ月後、八尾市に住んでいる叔父の葬儀に参加したのですが、それは私が経験する初めてのキリスト教によるものでした。讃美歌に送られての出棺に感動を覚えたものです。そのすぐ後でしたが、私は、原因不明の重症の感染症を患い、1か月近く入院することになりました。入院も初めての経験でした。それまで、多忙で読書も、ままならなかったのですが、次々に差し入れられる信仰書やテープなどをゆっくり味わう機会となり、不十分だった罪への理解と、自らを省みる良い機会となりました。

退院後、数か月たった9月に洗礼を受けたのですが、続けて起きた一連の出来事に不思議な主の導きを感ぜずにはいられませんでした。そして、もっと聖書を知りたいとの思いが募り、地元の神学校に学ぶ機会も与えられました。

私は、確かに主の導きを感じましたが、クリスチャンになることを決断したのは私自身だと思っていました。しかし、聖書のヨハネ1516節の「あなたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選びあなたがたを任命したのです。」のみことばを知り、本当だと実感したものです。

さらに私にとっての恵みは、近くの長老教会に赴任してこられた、小畑進先生と15年にわたりお交わりをいただいたことです。すぐ近くにお住まいでしたし、年齢も近く、家族ぐるみのお付き合いでした。キリスト教だけではなく、佛教、神道についてもいろいろ教えて頂きました。牧師であり、また佛教関係、東洋思想の学者でもある先生は、多くの宗教は、人間が考え作った神々、への信仰であり、キリスト教は、人間を含む万物を作られた唯一の神を信仰する宗教だと云われていました。

それに何よりもご夫妻で実践されているクリスチャン生活に接したことは、たいへん素晴らしい経験でした。昨年11月に召天されましたが、その思い出は私の宝でもあります。

 人生に苦難、困難はつきものです。クリスチャンは、苦しい時、キリストに思いのすべてを打ち明けることができます。そしてキリストはいつもそばに居て下さり、私たちを見捨てず、脱出の道を備えてくださいます。今、私は、遅まきながらクリスチャンになれたことを大変喜んでいます。そして、私のような者を選んでくださった神に心からの賛美を捧げたいと思います。