Sunday, April 4, 2010

「空の空」 9


聖書・伝道者の書 4:1−6「私は再び、日の下で行われるいっさいのしいたげを見た。見よ、しいたげられている者の涙を。彼らには慰める者がいない。しいたげる者が権力をふるう。しかし、彼らには慰める者がいない。私は、まだいのちがあって生きながらえている人よりは、すでに死んだ死人のほうに祝いを申し述べる。また、この両者よりもっと良いのは、今までに存在しなかった者、日の下で行われる悪いわざを見なかった者だ。私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。愚かな者は、手をこまねいて、自分の肉を食べる。片手に安楽を満たすことは、両手に労苦を満たして風を追うのにまさる。」

「人間」という言葉は、「人」(ひと)の「間」(あいだ)ですが、残念ながら「日の下」のこの世では、人間と人間の間に常に緊張があるように思わされます。ソロモン王は、この伝道者の書の4章で、その緊張は、「しいたげられている者」と「しいたげる者」の間に緊張だけではなく弾圧があると言っています。また、「権力」からの圧迫だけではなく、「人間同士のねたみ」と言う緊張があると言っています。

「しいたげられている者」と「しいたげる者」の間に緊張だけではなく弾圧があるのです。徳川時代「士・農・工・商」と言う弾圧的制度が作られました。徳川幕府は、参勤交代によって、格藩の大名にプレッシャーをかけ、それによって大名は特に農民に圧迫をかけました。江戸幕府の時代、日本中の農民は、大名などに反発して、一年に10回ぐらいの一揆(いっき)があったようです。

また、同じ徳川時代に士・農・工・商」より低い身分の“カースト”を作ったのです。「穢多」(えった)または「非人」と言うグループでした。人々は、人間ではないと「非人」と呼びました。「徳川幕府が、上へ吹きあげてくる不満を下へ向かわせるために作り上げた政略だったのです。何の根拠もない差別虐待でした。」また、キリスタン弾圧もありました。子供を含めて、何万人の日本人キリスタンは、死刑にされました。

弾圧され差別されるものの「涙」が多く、この「日の下」では、「彼らには慰める者がいない」のです。ソロモン王は、このような弾圧にあるなら、「慰める者がいない」のなら、ただ人間の角度から見ると、生きるよりも、死んだほうが良い、と言いました。いや、先ず、生きてこなかったほうが良いでしょう、と言いました。それほど、弾圧や、差別の苦しみが多いのです。悲惨です。実に「空の空」であり、「空しい」のです。

人間の間の緊張は、上から来るだけではないのです。「人間同士のねたみ」と言う緊張があるのです。「私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。」「ねたみ」を心に抱いている人間は、「あらゆる労苦とあらゆる仕事」で、 “人を踏みつぶしてもいいから”の我れ先の「成功」にのめり込まれているのです。ひねくれている資本主義です。また、その前に来る教育からもこの「ねたみ」と我れ先の競争が始まります。

アメリカでは”keeping up with the Jones”と言いました。「ジョーンズ(佐藤のような一般的な名前)に負けないように頑張らなくっちゃ!」ジョンズさんが新しい車を買うから、あの家を建てるから、あのきれいな服を着ているから、あの学校に行くから、私も。また、それによって、緊張感がお互いの間にあるのです。建前は、子供のため、家族のため、会社のため、社会のため、ときれいごとを言いますが、本音は、「ねたむ」自分のためなのです。

「これもまた、むなしく、風を追うようなものだ」とソロモン王は断言しています。「両手に労苦を満たし」無我夢中で休みもせずに仕事するよりも、「片手に安楽を満たすことは。。。まさる。」人を「ねたみ」競って、働きにのめり込まれるよりも、安息や休みもとったはうが知恵だ、と教えています。労苦も、安楽もバランスをとって過ごしたほうがましだ、と書いてあるのです。動労者や隣人と競ったり、緊張して生きるのは「空しい」のです。

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり。されば、天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生れながら貴賤上下(きせんじょうか)の差別なく、万物の霊たる身と心との働を以て天地の間にあるよろづの物を資り(とり)、以て衣食住の用を達し、自由自在互に人の妨(さまたげ)をなさずして各々安楽に此世を渡らしめ給ふの趣意なり。」 福沢諭吉

福沢諭吉は、この考えを自分の母チエから学び取ったと言われています。しかし、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」を読むと、これは聖書を引用していたと言われています。彼は、米国や、ヨーロッパに渡り、三回も幕府遣外使節の通訳をつとめ、欧米のキリスト教文化に深く触れていました。アメリカの憲法の“All men are created equal”(全ての人間は平等に造られた)の革命的な言葉を読んだに違いないです。日本と違って、外国では誰でも大統領になれることを見て聞いて、目を開かれていました。

しかし、「人間同士のねたみ」や「しいたげ」は確かにあるのです。なぜでしょうか?神(創り主)が人間を造った時、人間は、神を愛し、隣人を愛していたのです。しかし、人間は、神や人間を愛すよりも、自分を愛し、物を愛すようになりました。そこから、人間の間の緊張、ねたみ、しいたげ、憎み、争い、または、戦争までが来たのです。

神は、この人間の罪をどうされたのでしょうか?解決は、キリストの十字架にあるのです。部落解放同盟・〈水平社〉運動の旗にある印があるのです。赤地に金の茨の冠です。赤はキリストの血、茨の冠は、キリストの十字架をあらわしています。部落解放にクリスチャンたちが立ち上がったからだそうです。

イエス・キリストも「しいたげ」と「ねたみ」の苦しみを深く体験しました。私たちを「しいたげ」と「ねたみ」から解放して下さるのは、「イエス・キリストとその十字架」のこの上もない愛です。十字架上でキリストは、人々のあらゆる罪(しいたげ、ねたみ、差別、弾圧も)をその身に負い、その罪の罰を代わりとなって受けたのです。唯一の神であるキリストは、その罪を赦しました。

聖書・マルコ10:45 「人の子<イエス・キリスト>が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、<十字架上で>自分のいのちを与えるために来たのです。」

神は、罪を悔い改めて、十字架上で死に、復活された主イエス・キリストを信じ受け入れる者に、「しいたげ」と「ねたみ」から解放する神の愛、恵と平和を下さるのです。キリストに留まる者には、上から圧迫されても、人がねたみを持って競っても、その人を赦し、愛し、その人のために祈る神の力を下さるのです。人の間の緊張に生きるのではなく、キリストの愛に生き、その愛を人に示すのです。

どんなにしいたげられ、ねたまれても、「空しさ」で終わらないのです。主イエス・キリストの恵みによって、真の“人間”の姿、『人の間』の姿、人間のはじめのエデンの園の姿、に回復し始めるのです。自分よりも、物よりも、神を愛し、隣人を愛しはじめるのです。