Monday, May 2, 2011

「やっぱり天罰だと思う」石原慎太郎




東京都知事石原慎太郎は、不思議なことを発言しました。「被災者の方々はかわいそう」と言いながらも、「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う。」3/11の大震災の「三重苦」〜9.0の地震、津波の破壊と原発の放射能〜を体験している東日本と福島、宮城と岩手の方に対する信じがたい発言です。しかし、ニューヨークの9/11の多発テロ事件の時も、変な発言が出ました。あるジェーリー・ファーウェルと言う牧師は、妊娠中絶者(abortionists)、フェミニスト、同性愛者の罪が9/11の悲劇を促した、と発言しました。
私たちは、リンカーン、キング牧師、マザーテレサを尊敬していますが、彼らを一番影響した方—イエス・キリストに聞くべきです。イエス・キリストが、災難にたいして何を言ったかを聖書のルカ13:1−5で見たいです。
聖書に入る前に、私たは、石原やファーウェルに聞きたいですが、「そこまで言う権利はどこから来るんですか?あなたは神の側近ですか?」私は、こう感じます。彼らは、自分の位にのぼせているのではないでしょうか?
イエス・キリストの言葉に耳を傾けましょう。ある人たちがやって来て、イエスにある報告をしました。「ピラト(エルサレムにいたローマの総督)が(イスラエルの北部にいた)ガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげる(宗教的な)いけにえに混ぜた。」このようにして彼らを殺しました。ピラトは、悪いこともしていない人に、逆に宗教的なことをしていた人に対して残酷なことをしました。人的災害ですね。
それにたいして、イエスは彼らにこう答えました。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」ガリラヤ人は、他の人よりも悪いから、悪いことが起こったのではありません、と言っているのです。逆にイエス・キリストは、こう皆に適用します。「全ての人は、罪人で、創り主なる神の前に立つ時が来ます。ですから、あなたは、悔い改めなさい。」
強調するために、イエス・キリストは、もう一つの例を語ります。「シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」この災害にあった人がより悪いから、災害にあったのではないのです。逆に、イエス・キリストは、いずれ神の前に立つ全ての人に「悔い改め」を命じているのです。
石原は、特に、東北の人が悪いから、「天罰だ」と言っているわけではないのです。それだったら、なぜより悪がある東京にいわゆる「天罰」はこなかったのか?と問えます。彼は、「日本人(皆)のアイデンティティーは我欲」だと言っているのです。しかし、石原と違ってイエス・キリストは、日本にこう言うでしょう。「東日本大震災があって、日本人は、他の国の誰よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」
日本は、北朝鮮より悪いのでしょうか?より悪い人に「天罰」が落ちるなら、金正日のような独裁者の上に落ちるはずです。この独裁者は、日本人などを拉致したり、核をつくったり、何万のクリスチャンを殺したり、自分の国民を餓死させたりしています。日本人だけではなく、「全ての人は罪を犯したので、神の栄誉を受けることが出来ない」と聖書は言っているのです。アメリカ人も、北朝鮮人も、韓国人も、中国人も。全ての人は、神の前に立つのです。ですから、一人残らず、いわゆる『道徳的』な人も、悔い改めなければならないのです。
でも「悔い改め」は、なじみのない言葉です。どういうことでしょうか?「悔い改め」は、主に「考えを変える」と言う意味がるのです。原子力発電所などのエネルギーについて「考えを変える」必要があるそうです。そのように、私たちは、神について、罪について、イエス・キリストについて「考えを変える」必要があるのです。
豊臣秀吉のキリスタン禁令の時から、日本は、国として、聖書、イエス・キリストを「鎖国」して来ました。今の日本の『建前』は鎖国していないと言います。宗教の自由があると言います。しかし、『本音』は鎖国しているのです。今日本は、個人として、家族として、国として、聖書とイエス・キリストに対する鎖国を解除する時です。「平成の開国」が必要です。主イエス・キリストを受け入れる時が来ました。
「天罰」と言うと聖書は、異なった「天罰」を教えています。それは、イエス・キリストの十字架です。十字架が教会の中心にある理由があるのです。それほど大事です。でも、それは、「天罰」を意味しています。全ての人は、自分の罪のゆえに、「天の罰」—永遠の裁きーを受けなければなりません。なぜなら、人は、天を創られた神を心を尽くして愛していないし、隣人を自分のように愛していません。私たちは、極めて自己中心です。そのゆえに、神からの正しい罰を受けなければなりません。しかし、神は、人となられました。イエス・キリストです。罪のないイエス・キリストは、十字架上で、人の罪を自分の身に負い、代わりとなって、裁かれ、「天罰」を受けたのです。「神は、罪を知らない方(イエス・キリスト)を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」聖書・2コリント5:21 私たちは、恵みのゆえに、罪を悔い改め、イエス・キリストを信じ仰ぐことによって、神の裁きと「天罰」の対象ではなく、神の愛と祝福の対象になるのです。
そうです。神は、人間に、「天罰」ではなく、イエス・キリストとその十字架によって、悔い改めと信仰によって、祝福を下さるのです。そのようにして、祝福された私たちは、人を、敵であっても、祝福するのです。その人を愛し、その人のために祈るのです。
写:宮城県、石巻市、荻浜町。