聖書・詩篇 49
指揮者のために。コラの子たちの賛歌
すべての国々の民よ。これを聞け。世界に住むすべての者よ。耳を傾けよ。低い者も、尊い者も、富む者も、貧しい者も、ともどもに。私の口は知恵を語り、私の心は英知を告げる。私はたとえに耳を傾け、立琴に合わせて私のなぞを解き明かそう。
どうして私は、わざわいの日に、恐れなければならないのか。私を取り囲んで中傷する者の悪意を。おのれの財産に信頼する者どもや、豊かな富を誇る者どもを。人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。自分の身代金を神に払うことはできない。‐‐たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない‐‐ 人はとこしえまでも生きながらえるであろうか。墓を見ないであろうか。
彼は見る。知恵のある者たちが死に、愚か者もまぬけ者もひとしく滅び、自分の財産を他人に残すのを。彼らは、心の中で、彼らの家は永遠に続き、その住まいは代々にまで及ぶと思い、自分たちの土地に、自分たちの名をつける。しかし人は、その栄華のうちにとどまれない。人は滅びうせる獣に等しい。これが愚か者どもの道、彼らに従い、彼らの言うことを受け入れる者どもの道である。セラ。彼らは羊のようによみに定められ、死が彼らの羊飼いとなる。朝は、直ぐな者が彼らを支配する。彼らのかたちはなくなり、よみがその住む所となる。
しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。セラ
聖書・1ペテロ1:18−21にこう書いてあります。「 ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現れてくださいました。あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。」
仏教では、死んだ後、戒名(法名、法号)をつけるのが普通です。しかし、高額な戒名料を要求されたり、その額によって戒名に差がつけられたりする事例があります。差別的な字句を含む戒名を与える風習が存在したそうです。仏教界の内部からも批判の声が出ているとのことです。戒名が一種の宗教ビジネスになっているのです。
私達は、贖宥状と戒名や、教会への献金や、高額なお葬式によってではなく、主イエス・キリストとその十字架の御業によってのみ罪赦され、神の子供となり、天国に行けるのです。すなわち、お金がなくても、子供であっても、教育が少なくても、道徳的に優れなくても、神を無視する罪を認め、キリストの十字架を信じるものは誰でも永遠の恵みに預かるのです。