私の教会に尋ねて来た方が“愛”は、日本人には分からない、と言いました。聖書の‘神’や、‘罪’も、ピントこないように、“God loves you,”[神様はあなたを愛している]と言われても、日本人にはピント来ないと言われています。
人の罪をも赦し、手を差し伸べる聖書の神の愛とは何でしょうか?
聖書・ローマ5:7にこう書いてあります。「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」唯一の神である主イエス・キリストは、十字架上で、私達の我がままな罪の裁きを、身代わりと成って受けて下さったのです。身代わりと犠牲です。ここに無条件な愛があるのです。
このイエス・キリストの素晴らしい愛を素直に信じ受け入れるのは自然なことだと私は思うのです。愛は、この福音(良き訪れ)を伝え、説得をしようとしますが、けして強制したりはしないのです。強制したら愛でなくなるのです。イエス・キリストは、こう伝えていました。「悔い改めて福音を信じなさい。」聖書・マルコ1:15。自分の神と人間への愛の小ささを神に告白し、その罪、いや、全ての罪から救って下さるイエス・キリストを信じ仰ぐのです。信じた瞬間、神の愛の種が植えられ、成長しはじめるのです。
私達がキリストの尊い愛を体験するとき、創り主に愛を持って崇めるのです。「人間のおもな、最高の目的は、何であるか。人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである。」(ウェストミンスター大教理問答、人生の目的)
聖書・1ヨハネ4:16に「神は愛です」とあるように、「政治は愛」に満ち満ちていなければなりません。家族は愛、友達は愛、教会は愛、教育は愛、福祉は愛、社会は愛、経済は愛、外交は愛です。主イエス・キリストの十字架の愛、また神のプラスアルファーの愛を体験すると、全ての分野が影響されるはずです。聖書の愛または、”隣人愛”は、日本をまたを世界を変えます。
「愛の書」1コリント13、は多くのチャペルでの結婚式で読まれます。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」聖書・1コリント13:4−8。高い基準です。どんなにキリストを信じていても、私達は、このような愛を示さない時があまりにも多いのです。その時、新たにへりくだり罪を認め、新たに主イエス・キリストとその十字架の愛を信じ喜ぶのです。その素晴らしいな愛に活かされ、私達が愛するのです。
三浦綾子の小説「塩狩峠」に出てくるある牧師は、街角でメッセージしているのです。その一部を引用します。「ほんとうの愛とはどんなものか、皆さんおわかりですか。ほんとうの愛とは、自分の最も大事なものを、人にやってしまうことであります。最も大事なものとは何でありますか。命でありませんか。このイエス・キリストは、大事なその命を我々に下さったのであります。」イエス・キリストの言葉を思って語っていたです。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」聖書・ヨハネ15:13。超越した愛のゆえに、主イエス・キリストは、世界の人々のために十字架上で「いのちを捨てられ」ました。その後について行く私達も、キリストの愛に活かされ、犠牲的に愛するのです。これが私達が目指している「友愛」ではないでしょうか?