Thursday, September 10, 2009

「愛」2


私の教会に尋ねて来た方が、“愛”は日本人には分からない、と言いました。聖書の‘神’や、‘罪’も、ピントこないように、God loves you,”[神様はあなたを愛している]と言われても、日本人にはピント来ないそうす。

聖書によると、人の罪をも赦し、手を差し伸べる神の愛とは何でしょうか?

「はじめに神が天と地を創造した」(創世記1:1)と聖書の第一ページにあるように、存在している神は、宇宙も、人間も、全てを創られた神で、超越して偉大な神です。また、神様は、恵み深くて悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるのです。」聖書・マタイ5:45。愛は、原点の創り主にあるのです。私達の神のふところに真の愛があるのです。

このようなお方を愛することは、あたりまえのことです。ですから、聖書にこうあります。「一番たいせつなのはこれです。『われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。』マルコ12:29−30

イエス・キリストは、こう教えました。「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。」聖書・マタイ5:21−22。私達人間は、行動を強調しますが、神様は、先ず心を重んじます。殺人は、殺意から、憎しみから、「腹を立てること」からはじまります。娘が行っていた幼稚園の子が「死ね」と言っていたそうです。その言葉は、人の心を表しているのです。私達人間は、あまりのも多く、心の中で人を憎み、心の中で殺していて、愛がないのではないでしょうか。私も、あなたも、同じ“罪人”(つみびと)です。しかし、この世に誰がこのように神を全く愛し、この世の誰が人を自分のように愛しているでしょうか?宗教改革のマルテン・ルター(写真)は、正直で、5分も神をそのように愛していない、と言いました。

「『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」聖書・マタイ5:27−28。性的愛は、夫婦間のみで行うことで、この真実さは心の状態からはじまる、とキリストは言っていたのです。姦淫という罪を行う前に、私達は、平気で、ポルノを見たり、エロチックな本を読んだり、心の中で結婚以外の‘性’を思いめぐらしたりします。これもキリストは罪と言っているのです。このようにして、女性であっても、男性であっても、相手を‘使う’ことは、愛ではなく、罪なのです。私達は、皆、罪人です。

私達人間は、真心から創り主を愛さない、純粋に隣人を愛さない者で、逆に神と人に無関心な、いや、無視しするような者です。しかし、このような私達人間とほど遠いお方がいます。そのお方は、イエス・キリストです。創り主は、どこまで人を愛されたのでしょうか?人となるまでです。これがクリスマスです。

この方イエス・キリストは、私達のような我がままな人間の間に住みました。それでも、超自然的な愛を表す奇跡を行います。実に、人の病いを癒し、悪霊を追い出し、死人を生き返らせました。

また、人間は、創り主に立ち返ることが出来る、という愛に満ちている教えをしました。「あなたがたのうちに羊を100匹持っている人がいて、そのうちの1匹をなくしたら、その人は99匹を野原に残して、いなくなった1匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、 帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない99人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」聖書・ルカ15:4−7。

イエス・キリストは、このような素晴らし行いや、教えをしたのにも関わらず、人間に嫌われ、ねたまれ、やがて殺されました。なぜでしょうか?キリストを殺すことは、人間の罪の頂点でもありました。しかし、キリストの定めでもあり、願い出もありました。聖書・ローマ5:7にこう書いてあります。「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。唯一の神である主イエス・キリストは、十字架上で、私達の我がままな罪の裁きを、身代わりと成って受けて下さったのです。身代わりと犠牲です。ここに無条件な愛があるのです。


また、キリストは、永遠の神であるからこそ三日目に復活しました。聖書・1コリント15:3−5にこうあります。
キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、3日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから12弟子に現れたことです。」死を打ち破ったキリストは、私達信じる者に復活と永遠の命、すなわち「死んでも死なない命」、の素晴らしい愛のプレゼントを下さるのです。

(つづく、「愛」3)