Tuesday, July 20, 2010

「隣人愛の源」 聖書・ルカ10:30−35


私たちは、インド、カルカッタのマザーテレサについて良く聞いたことがありますが、“ハイチのマザーテレサ”について聞いたことありますか?5月24日のNHKのクローズウップ現代で“ハイチのマザーテレサ”の番組がありました。番組関心ランキングは一位でした。“ハイチのマザーテレサ、”須藤昭子(すどう・あきこ)さんは、83歳の日本人のお医者さんで、また修道女です。NHKによると、彼女は、失業率70%の貧困、治安悪化、政治の混乱が続くハイチで、30年以上医療支援を続けてきました。国際的な支援の手が十分に届かない貧困層の苦しみの中で須藤さんはハイチの人々に手を差し伸べて来ました。*NHKの国谷裕子さんは、須藤さんに鋭い質問を聞きました。「ここまでする力はどこから来るのですか?」と聞きました。
私たちは、今日集まった最も大事な理由は、ただメッセンジャーズによるゴスペルライブを聞きに来たためだけではないのです。私たちは、日本国際飢餓対策機構を通して世界の貧しい人たちのために、寄付金を集めるためにここにいるのです。チャリテーコンサートです。
チャリテーコンサートの「チャリテー」と言う言葉は、ラテン語のカリタスから来て、親愛、愛情、隣人愛と言う意味があります。聖書のガラテヤ2:10に、こう書いてあります。「。。。貧しい人たちをいつも顧みるように。。。」貧しい人たちに対する愛は、キリスト教会の大事な伝統の一つです。
しかし、“ハイチのマザーテレサ”や、私たちの慈善の動機は、どこから来るのでしょうか?イエス・キリストは、この「良きサマリア人」の例えを通してチャリテー〜隣人愛〜の原動力を教えて下さいます。
ルカ10:30、あるユダヤ人が、エルサレムからエリコへ向かっていました。あまりにも危険な道でした。“血の峠”と言う所もありました。彼は、案の定、強盗に襲われました。強盗は、着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにし、逃げて行きました。たまたま、宗教者の祭司がひとり、その道を下って来ました。しかし、彼を見ると、無視して反対側を通り過ぎて行きました。同じようにして、もう一人の宗教者のレビ人も、同じ場所に来て彼を見ると、無視して反対側を通り過ぎて行きました。なぜでしょうか?危なかったのです。自分を犠牲にして他人を助けることはしたくなかったのです。 ところが、道に横たわっている人の敵でもあるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来たのです。動詞に注して下さい!33節「彼を 見て、かわいそうに思い、近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて、宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して、言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』。。。。サマリア人は、この敵であるユダヤ人に、自分の命、心、時間、物、お金をおしまずに“注ぎ”ました。
私たちは、正直であれば、隣人をこのように愛していないです。聖書の基準は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」「あなた自身のように!」私たちは、常に、朝から晩まで、自分を大事に大切にしています。歯を磨いて、顔を洗って、服を着て、朝ご飯を食べて、学校に行って、働いて、昼ご飯/夕ご飯を食べて、遊んで、テレビを見て、お風呂入って、寝て。ひたすら自分のためにです。「隣人をあなた自身のように愛して」いますか?いや、私たちは、どっちかというと無関心な者です。また、良いことをしても、動機があまりにも汚れています。正直であれば、自己中心な我がままな罪人です。しかし、この箇所に、私たちをそのような罪から、またあらゆる罪から、救って下さるお方がいるのです。
私たちが、他人の罪によって、また自分の罪によって、「着物をはぎ取られた、なぐりつけられた、半殺しにされた人」です。救い主イエス・キリストがこの「良きサマリア人」です。このサマリア人の動きを読み取りましょう。33節、「彼を見てかわいそうに思い、近寄って。。。」などなど。イエス・キリストの生涯の少なくっとも7回の“ハプニング”に、これと同じような文書がります。聖書のマタイ9:36、14:14、15:32、20:34、マルコ1:41、6:34、ルカ7:13、15:20。イエス・キリストは、人々を見て、かわいそうに思い、何々をした、と何回も何回も繰り返されてあります。
キリストは、人々を見て、かわいそうに思い、次のように具体的に実践しました:イエスは、群衆のために祈り教えました。病人を癒し、見えない目やハンセン病を癒し、群衆を食べさせ、死人を生き返らせました。ルカ7:13、14にこうあります。「主(イエス)は、死んでいた息子の母親を見て、かわいそうに思い、『泣かなくてもよい』と言われた。そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、『青年よ。あなたに言う、起きなさい』と言われた。」この「かわいそうに思い」という言葉は、英語で“compassion”と言う言葉で、心の奥底から湧き上がる愛、のことです。
イエス・キリストは、この例えにある二人の無関心な宗教家と違います。イエスは、私たちを見て、かわいそうに思い、近寄って、徹底的に私たちを助け救って下さいます。私達人間は、はじめには、神を愛していました。また、隣人を愛していたのです。しかし、私達は、神を愛し、隣人を愛するよりも、自分自身を愛し、物を愛すように成りました。それによって、自然が乱れるように成りました。平安が私達自身の心から去り、平和が互いの間からも去りはじめました。貧困、飢餓、戦争、不正、差別、憎しみ、空しさ、失望、病気と死がその悲しい結果です。
しかし、神は、イエス・キリストと言うお方を通して、私たちの歴史に入って来られたのです。イエスは、神と私達の間の愛の関係を、また人間と人間との愛と関係を、癒し直すために来たのです。キリストは、罪人の間に住み、人を癒し、死人をよみがえらせました。キリストには、いっさいの罪のないお方で、神の掟に完全に従いました。しかし、イエスは、不正な裁判にかけられ、ののしられ、むち打たれ、苦しみました。また、イエスは、釘打たれ、裸にされ、十字架上で槍で刺しとうされ、渇き、あざけられました。それは、イエス・キリストは、十字架上で、私たちが自分の罪のゆえに死ぬべき死を代わりとなって死んで下さったのです。犠牲です。身代わりです。イエスの犠牲的な十字架の死によって、神との和解、人との和解をはじめられたのです。
神と和解するために、私達は、自分の行いでは無く、イエスの十字架の行いによって活かされるのです。信仰によって活きるのです。このようにして、私達は、全く新しい人となります。イエスの力強い癒しが私達の内に、また私たちを通して他の人に働きはじめるのです。また、イエスは、その生涯と十字架によって、どのように人生を送るべきかの愛と模範を立てて下さいました。
私たちは、この泥棒に「半殺しにされた人」のようです。自分と他人の罪によって、悲惨な状態にいることを認め、自分の罪を悔い改めるのです。また、救い主イエス・キリストとその極めた‘compassion’()を信じ受け入れるのです。三日後に復活されたイエス・キリストを仰ぎ見るのです。いつでも、どこでもこう祈れます。『神様、この罪人の私をあわれんで下さい』と。。。。。
私は、高校生の頃、イエスが人々を「見て、かわいそうに思い」実践されたいくつかの聖書の文書を見て、“Jesus is real,”(イエス様は本物だ)と感動したのを覚えています。人は、見て無視します。また、見ても、心は動きません。また、見て、心が動いても、実践しないのです。イエス様は、私たちを見て、深く愛し、命がけで実践しました。”Jesus is the real thing!”(イエスは、本物です。) Trust Him. (イエスを信じなさい。)Follow Him.(イエスに従いなさい。) He is your resource. (イエスは、あなたの源です。)
作家三浦綾子の小説「塩狩峠」の全てを読んでほしいですが、その中で主人公信夫は、信仰告白を書きます。その一部です。良きサマリヤ人のイエスの例えを心にしてこう書きました。『その時にわたくしは神の声を聞いたのです。お前こそ、山道に倒れている重傷の旅人なのだ。。。 わたくしこそ、ほんとうに助けてもらわなければならない罪人だったのです。そして、あの良きサマリヤ人は、実に神の独り子、イエス・キリストであったと気がついたのです。。。 いまこそわたくしは、十字架の贖い(あがない)を信じます。その御復活を信じます。また約束された永遠の命を信じます。わたくしたちのために犠牲となられたイエス・キリストを思う時、わたくしもまた、この身を神に捧げて、真実の意味で神の僕になりたいと思っております。』後、信夫は、塩狩峠で隣人のために命を捧げました。が、その源は、イエス・キリストとその贖いの愛でした。
“ハイチのマザーテレサ、”須藤昭子さんの活躍の力、動機と原動力は、イエス・キリストとその十字架の愛から来るのです。私たちも、自分自らの力で「良い行い」をしようとすると、傲慢になったり、疲れはてたりするのです。私たちは、キリストの恵み深い愛を源にして、寄付し、奉仕し、活動するのです。

*私は、このメッセージを、6月12日、高松のCharity Concertで語りました。