Tuesday, October 6, 2009

『敬愛』エペソ5:21ー33



聖書・エペソ5:22−33 「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。私たちはキリストのからだの部分だからです。『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。』この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。」
     
西洋では、夫婦関係を強調します。日本では、親子関係を強調します。でも‘父親が、自分の子供にしてあげられる最大な事は、子供の母を愛する事です。’妻を愛する事は、子供を愛する事です。また、夫を敬うことは、子供を愛することです。これについて聖書は、何を語っているでしょうか?

聖書・エペソ5:33「夫を敬いなさい。妻を愛しなさい」とあります。私が大好きな熟語”敬愛”です。

エペソ5:21ー33に、結婚生活の基本があります。キリストの十字架の恵みを体験した人々に、夫婦関係の掟が書いてあります。先ず、文脈のエペソ1章から3章があって、この5章の夫婦愛の掟があります。すなわち、主の恵みを喜んで、従うのです。神に愛され、愛するのです。

先ず、聖書は、妻たちに語っています。22節「自分の夫に従いなさい。」聖書で男女平等を教えています。しかし、家庭の中で秩序が保たれるように、聖書は、家の頭は、夫である事を教えています。従う事は、妻の責任だと教えています。’従う’事は、妻が’ドアマット’に成ると言う事ではありません。妻は、踏み台、奴隷、召し使いではありません。22節の「従う」事は、33節の「敬う」事だと教えています。

英語では、敬う、と言う言葉は、RESPECTと言う言葉です。RE は、新たに、SPECTは、見る、です。‘新たに見る、’と言う意味があります。妻は、夫に課題を多く見えても、夫を当たり前に見ないで、新たに見て、尊敬する必要があるのです。

ある小学校の先生は、自分の生徒のお母さんに、‘あなたの夫は、立派な人ですね、’と言いました。本当は、お父さんは、あまり家にいなかったのです。お母さんは、先生にこう言いました。「私は娘に、‘あなたのお父さんは、すごいよ、’と常に夫を誉めています。」夫をRESPECTしましゅう。

次に、聖書は、夫たちに語っています。25「自分の妻を愛しなさい。」でも、どのようにして愛するのですか?例えが二つあります。25では、「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように」とあります。愛する事は『ご自身を捧げ』る事だと教えています。イエス・キリストの十字架の愛から模範をとっています。どう言う事でしょうか?

自分自身を愛し、物を愛すように成りました。自然が乱れ、壊されはじめました。平安が私達の心から亡くなり、平和が互いの間から亡くなりはじめました。夫婦の間もそうですが、あらゆる人間関係においてもそうです。戦争、飢餓、貧困、不正、差別、憎しみ、失望、病気と死がその結果です。

しかし、存在する神は、この‘愛の冷えた’世の中を訪ねました。神が人と成りました。イエス・キリストのことです。キリストは、完全な愛の生涯を送り、信じられないような愛の奇跡を行いました。素晴らしい言葉を語りました。「神を愛し、隣人を愛しなさい」と。

また、キリストは、神の超越した愛を示しました。万物を創られた神を無視する人間の為に十字架上で死なれました。キリストは、罪人の罪の罰を十字架上で身代わりと成って受けたのです。犠牲的な愛です。また、キリストは、歴史事実、三日目に復活しました。天に昇られ、全て治めています。キリストは、未来に完全な平和、正義と愛の世界を治める希望もあります。

神を無視する罪を告白し、この’良き訪れ’を信じ受け入れる者の罪は、全て帳消しにされ、造り主の不思議な愛の対象と成り、神の子供に成れるのです。

この箇所のポイントは、「キリスト」が十字架上で「ご自身を捧げ」られた事です。イエスは、その生涯と十字架で、私たちを罪から救って下さいます。また、それに加えて、どのようにして人生を送るべきか模範を立てたのです。隣人にキリストの十字架の愛を表すのです。この箇所では、特に一番身近な妻にです。

ここで語られている愛は、先ず、感情的な、ロマンチックな、性的な愛ではありません。先ず、愛する事は、無条件に自分を捧げる、犠牲的な愛と言う事です。’妻を当たり前にしない、自己中心でない、自己満足を得ようとしない、逆に、愛する人の最善の為に努力するキリストの神の愛です。

具体的に、その愛は、子供を自分より優先する時、尊敬されない時、その罪を赦すのです。疲れている時も、妻の話をじっくり聞くのです。試練にあう時、勇ましくそれに立ち向かい、進むのです。家族を守る愛です。

は、正直言って、キリストのように犠牲的で奈帆(妻)を愛さない時が多すぎます。そのような時、私は、妻を愛さない罪を新たに認め、キリストの十字架の赦しと愛と恵みにある事を新たに信じるのです。その愛で、私は、妻を新たに愛するのです。恵みに活かされている者は、恵みを示すのです。

5年ほど前、アメリカから帰って来て、ツタヤでビデオレンタルしようとしました。驚いたのは『パッション』(イエスの受難)と言う映画が全て貸し出しに成っていました。アメリカで超人気の映画でした。この映画がキリストの犠牲的な十字架の愛を恐ろしく正確に絵がいています。キリストが私達を救う為にどれほど苦しんだか、私達は、分からないと思います。基準は、高いです。キリストのタフな愛が夫の模範です。

28節では、「自分の体のように」とあります。妻と夫は、一つであるから、妻を愛すと、自分をも愛す事にも成る、とあります。妻を傷つけると、自分を傷つける事に成るのです。

”釣った魚にはエサをやらない。”一旦結婚したら結婚前のように妻を大事にし無くっても良い、と思う人がいます。結婚する前に、色々話しあったり、花買ってやったり、手紙を書いたり、デートしたりします。が、結婚の後は、”もう良いでしょう、”と言う考え方です。(錦鯉は「釣った魚」ではないです。)が、何億円もする錦鯉には「エサをやらない」ことは考えられません。錦鯉を大事に大事に育てます。あなたの妻は、錦鯉よりずっとずっと尊いです。妻を釣ったわけではありません。神からのプレゼントです。ならば、妻を大事にしましょう。

‘父親が、自分の子供にしてあげられる最大な事は、子供の母を愛する事です。’ 特に、お父さんたち、男らしく、妻を大事にしなさい。子供が安心します。そのようにして自分の子供を愛しましょう。

*このメッセージは、結婚式や、教会でしました。