5月18日、家内と私は、天使と悪魔を見に行きました。良いデート♡でした!しかし、疑問になる事もいくつかありました。
※天使と悪魔の本当の訳は、天使と悪霊(demons)です。この文書で”A & D”と言う省略を使います。
A & D で、ローバート・ラングドン博士はこう言いました。「歴史のはじまりから、科学と宗教との間に大きな淵が存在している」(”From the beginning of history, a deep rift has existed between science & religion,” Robert Langdon)
本当に歴史のはじまりから聖書と科学は対立しているのでしょうか?
★ 先ず、A & D の歴史性に課題が多いのです。もちろん、著者ダン・ブラウンが語っているように「小説」(fiction)です。しかし、彼は、歴史の真実を語っているかのようにキリスト教界の一部(カトリック)の科学に対する態度を批判しています。
実際、教会は、イルミナテイ(Illuminati)のひとりも殺しませんでした。ガリレオは、残念ながら教会によって裁判にかけられ、家で監禁させられました。しかし、科学者が厳しい避難(censure)を受けた事は珍しかった事で、殺されたのは一人もいません。逆に、当時のほとんどの大学や病院は、教会によってはじめられました。
トム・ハンクスは、映画の素晴らしいセリフを引用しました。スイスの護衛隊がラングドン博士にこう言います。「私の教会は、飢えた人々に食べ物を与える。私の教会は、貧しい人と死を迎える人に手を差し伸べます。あなたの教会は何をしていますか?そうだった。あなたには、教会がないのです。」 (My church feeds the hungry. My church cares for the poor and dying. What does your church do? That's right—you don't have one.)キリスト教を避難する人に問いかけているようです。確かに、教会には、課題があるが、世の中の問題を多く解決しようとしています。逆に、あなたは何をしているのですか?
★ 次に、本当に歴史のはじまりから聖書と科学は対立しているのでしょうか?と問いたいです。次の科学者達は、聖書や、キリスト教が科学を生んだと言っています。
アルフレッド・ホワイトヘッド(1861−1947)やロバート・オッペンハイマー(1904−1967)は、キリスト教がキリスト教世界観が現代科学を生んだ、と強調した。キリスト教が「神の理性の主張」をしていたからこそ、現代科学の母となったのである、とホワイトヘッドが言いました。聖書の語る通り、天と地が神によって創られ、人間が神のかたちに創られました。神は、秩序と理性の神であるから、科学者は、神が与える自然と法則を観察し、研究できるのです。
フランシス・べーコン(1561-1626)は、聖書・創世記3章に記録してある人間の堕落をそのまま信じていました。Novum Organum Scientiarum でこう書きました。「人間は、その堕落によって罪のない状態から落ちたのだけではなく、創造物を治める立場からも落ちた。ここで失われたものは部分的に回復できるだろう;前方は宗教と信仰によって、後方はと芸術(arts)と科学によって。」彼は、聖書の歴史性をも主張していました。ベーコンは、聖書は、徹底して学ぶべき本である、と書きました。
ヨハネス・ケプラー(1571-1630)は、こうのべました。「。。。我が創造主よ、私はあなたに感謝します。あなたの創られたものは私を喜ばせ、あなたの創られたものを私は喜ぶ。。。私は、神が創られた全てのものの数、規模、量を調べる権利、いや、義務がある。神御自身が人間にこの知識に参加できるよう許した。。。」
アイザック・ニュートン(1642−1727)は、日本で主に力学の科学者として知られていますが、ニュートンは、科学よりも聖書について多く書きました。宇宙を創られた神は、聖書を下さった、と確信しました。ニュートンはPrincipiaでこう書きました。「神は永遠で、無限、全能で、全知;と言う事は、神の命は永遠から永遠までで;神の存在は無限から無限までです。神は、全てを支配し、存在しているものと可能性のあるものを全て知っている。」 ジョージ・トレベリアンがニュートンについてこう書いた。「科学的方法(scientific method)と聖書(その歴史と奇跡を重んじる宗教)は相反する結論に達するとは思わない。科学者ニュートンは、その信仰において生きて、死んで行った。」
ブレーズ・パスカル(1623−1662)は、人間の原罪と堕落を信じながらも、人間は、特別で、イエス・キリストが十字架上で罪人のために死なれた事を強調しました。
電磁気学に貢献したマイカル・ファラデー(1791−1867)は、こう書いた。「聖書が語る事について私達が語る。聖書が語らない事について私達は語らない。」これら科学者にとって、聖書と科学の対立は存在しなかったのです。
★ 最後に、科学を”神”のようにする事は非常に危険です。科学は、良いものもしてきましたが、悪いこともしてきました。広島に住んでいた私は、何回も原爆ドームと資料館に行きました。長崎と広島の悲劇を作ったのは”科学万能”の哲学です。
人間は、徐々に神を社会から除こうとしました。その結果、神に創られた人間をも除くようになったのです。人間は、単なる動物と機械として見られるようになりました。「神が死んだ」と言われましたが、実際は、人間が”死んだ”のです。聖書にあるように、「愛が冷え」てきたのです。
この人間の動物化・機械化の中心人物は、進化論を研いだチャールス・ダーウィンでした。進化論が生んだのは、”社会的ダウィニズム(social darwinism)”で、人種差別でした。
その悪の頂点は、第二次世界大戦に見えます。ゲシュタポの指導者ハインリヒ・ヒムラー(1900−1945)は、強いものが生き残ると言って、ユダヤ人を含める1億人以上の人を虐殺しました。極悪人アドルフ・ヒットラーは、何回もこう言ったそうです。「キリスト教とその愛を強者生存の道徳に変えるべきだ。」
女性の差別も影響しました。マルキ・ド・サド(1740-1814)は、La Nouvelle Justineでこう書きました。「自然は、男性を一番強いものにしたから、女性に好きな事をしても良い。」道徳や、価値観がないのです。ジョン・ポール・サルトルは、(1905ー1980)絶対的な基準がなければ善悪の基準がない、と書きました。”弱者”は、悪用されます。
科学万能の哲学は、人間をただの分子にしてしまうのです。ジョージ・ワルドは、こう言ったそうです。「四〇〇年ほど前に、ハムレットを書いたシェークスピアと言う分子の固まりがいた。」この科学者にとって、人間が「神に似せてつかられた人」でなくなっているのです。
現在の世界は、ダウィニズム世界感に生きようとする世界です。アメリカは、”経済的強者生存”で、日本は、”教育的強者生存”です。人格的な神の居場所がないから、本当の人間の姿が見えなくなり、本当の愛や、自由や、意義の’居場所’がないのです。
結局、科学万能の世界では、人間は、絶望に落ちるしかありません。ダ・ヴィンチ・コードのレオナルド・ダ・ヴィンチがその一人でした。また、日本にも多くの引きこもり、自殺、うつ病の方がいるのも、聖書が明言する人格的な神とイエス・キリストの十字架の愛の’居場所’が少ないからです。
科学と宗教の間に多きな淵はないのです。しかし、科学者である人間は、神を彼らの世界観から除こうとした時から、人間は、本来のあるべき人間の姿から遠のいて行きました。その結果は、絶望に導くだけです。
聖書・詩編19:1「天は、神様の栄光を物語る」とあります。自然界を見て、部分的に神の栄光が分かります。聖書を読んで、さらに詳しく神が分かります。聖書でイエス・キリストを見て、また神とそのあふれる恵みが分かるのです。
[参考 フランシス・シェーファー博士]