Friday, December 16, 2011

「主を恐れ敬うことは知識のはじめ」


人を恐れることは罠である。主を信頼する者は高い所に置かれる。」聖書・箴言29:25

豊臣秀吉は、千利休を通して、高山右近に最後の警告を下しました。『右近は、関白に使えたいなら、キリスト信仰を捨てなければならない。また、どうして高槻でキリスト教を促したのか?』と。

右近の答えは簡単でした。『家臣として全ての点において従いたいが、信仰だけは捨てられない。伝道に関しては、私の最高の働きだと思う。』

右近は、追放されましたが、また、秀吉に呼び戻されました。茶道も共にしました。秀吉に対して、右近は、少しも恨みをもっていませんでした。その頃、右近は、徳川家康と共に茶道をしました。

右近は、続けて信仰を公に実行しました。長崎にいる宣教師を名古屋に呼びました。大坂と京都の伝道を熱心にし、その中で信仰を持ったのは、信長の孫、織田秀信と他の大名でした。

秀吉が亡くなって、右近は、16年金沢の前田藩にいました。右近は、金沢と能登半島にもいくつかの教会を建てました。

しかし、1614年に徳川は、キリスト教禁令を下しました。前田年常は、右近と戦う準備をしたいた時、右近はこう言いました。「私は、武器によってではなく、忍耐と謙遜によって、私が告白するイエス・キリストの教えによって、救いを勝ち取ろうと思っている。」

右近は、宣教師とともに、福田からフィリピンに旅立ちました。1615年、フィリピンに着いて、40日間経って、彼は、63年の生涯を閉じ、天に召されました。

右近は、孫にこの最後の言葉を言いました。「キリスト教信仰にしっかり立つように。」最後まで、徳川を含めて、誰も、彼の信仰の自由を奪い取ることは出来ませんでした。

元香川県知事前川忠雄の好きな聖書の言葉は「主を恐れ敬うことは知識のはじめ」でした(聖書・箴言1:7)。右近は、人を恐れていませんでした。生ける神を恐れ敬っていました。そして、彼は、自由でした。