聖書・伝道者の書4:7ー16「私は再び、日の下にむなしさのあるのを見た。ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もない人がいる。それでも彼のいっさいの労苦には終わりがなく、彼の目は富を求めて飽き足りることがない。そして、「私はだれのために労苦し、楽しみもなくて自分を犠牲にしているのか」とも言わない。これもまた、むなしく、つらい仕事だ。
私は、今、ジェームス・マードックの“A History of Japan”(日本の歴史)を読んでいます。昔の日本は”WA”と呼ばれていました。現在の日本の社会は「和」という仕組みによって説明できます。学者は「総合依存」と言っています。対照的に、アメリカ人は、個人主義を強調します。独立戦争ではじまり、開拓者は“西へ、西へ”と未開地を切り開きました。アメリカは、フランク・シナトラの歌のように“マイウェイ”(My Way)の社会です。しかし、ソロモン王は、個人主義は危険ですし、「空しい」と語っています。
富をむさぼるのは空しい。
ソロモン王は、孤独を体験している人を例えています。この人は、お金や、仕事にのめり込まれているのです。「富」を神(最も大事な存在)にしているので、「彼のいっさいの労苦には終わりがなく、彼の目は富を求めて飽き足りることがない」のです。彼は、仕事やお金に夢中になり、もはやもう自由ではなく、お金という容赦しない主人の奴隷になっているのです。『私はだれのために労苦し、楽しみもなくて自分を犠牲にしているのか』とも言えない程、仕事や富の本来の目的、人の為にあること、を見失っているのです。仕事と富が一種の“麻薬”と中毒になって大事なものを見失っているのです。その麻薬と中毒のゆえ、人を忘れ、人を傷つけ、人が離れて、「ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もない」孤独な者になっていくのです。彼は、結局、「自分をも犠牲にし」ているのです。お金や仕事を‘神’にすると、その奴隷になり、すごい「犠牲」をはらうのです。「これもまた、むなしい」と聖書にあるます。
人は死ぬまぎわ、けして「もっと働いて、お金貯めたら良かったなー。もっと出世したら。もっと速い車やもっと大きな家があったら。もっと多く旅行できたら」と思わないのです。「もっと人を、家族を、大事にし、一緒にいたら良かったなー」と思うのです。何よりも優れているお方創り主を自分の真の『富』(最大の宝)とすると、イエス・キリストの恵みによって満たされていると、健康的な優先順位が出来るのです。働いてお金を使いながら、富や仕事の奴隷にならないのです。働くときは働きますが、仕事以上に家族を大事にするのです。仕事関係の人を含めて、人を大事にするのです。貧しい人、傷ついた人、弱い人、差別されている人を大事にするのです。仕事や富は、自分のためにあるのではなく、人のためにあるのです。
頼り合うことには意義がある。
「労苦」をはじめ、いろんな状況において、「ふたりはひとりよりもまさっている」と書いてあります。「三つ撚りの糸は簡単には切れない」と終わっています。私たちの究極的な期待と信頼は、創り主のみに置くべきです。なぜなら、人に、神のみが出来ることを期待すると、人はその期待につぶされ、期待を裏切るのです。確かに「頼み難きは人心」です。しかし、人を人として、その弱さや限度を知りなが信頼すると、助け合うことになり、「良い報いがある」のです。「船は帆でもつ帆は船でもつ」のです。
はじめから、神は、私たち人間に「頼り合って」欲しかったのです。私達人間は、神に頼り愛していました。また、隣人を愛し頼っていたのです。しかし、私達は、神を愛し、隣人を愛するよりも、自分自身を愛し、物を愛すように成りました。それによって、自然が乱れるように成りました。平安が私達自身の心から去り、平和が互いの間からも去りはじめました。戦争、飢餓、貧困、不正、差別、憎しみ、空しさ、失望、病気と死がその悲しい結果です。しかし、神は、イエス・キリストと言うお方を通して、私たちの歴史に入って来られたのです。イエスは、神と私達の間の愛と信頼の関係を、また人間と人間との愛と信頼の関係を、癒し直すために来たのです。イエスの犠牲的な十字架の死によって、神との和解、人との和解をはじめられたのです。神と和解するために、私達は、自分の行いでは無く、イエスの十字架の行いによって活かされ、信仰によって活きるのです。このようにして、私達は、全く新しい人となります。イエスの力強い癒しが私達の内に、また私たちを通して他の人に働きはじめるのです。イエスは、その生涯と十字架によって、どのように人生を送るべきかの愛と信頼の模範を立てて下さいました。このイエス・キリストの恵みによって、「頼り合う」のです。
エデンの園の時から「人は一人であることは良くない」(聖書・創世記2:18)と神は語ったのです。はじめから、神の計画は、人間を”community”(コミュ二テイー、共同体)にあるものとして造られました。後で、家族を造るのです。また、いずれ、国と教会という共同体を造ることになるのです。なぜなら、「ふたりはひとりよりもまさっている」のです。今もそうです。神のみにある究極的な意義を喜んでいる者には、神は「隣人を愛しなさい」、「互いに愛し合いなさい」、また「頼り合いなさい」と命じているのです。
出世は空しい。
全ての出世は良くないと言っていません。神を神として敬い、人を踏みにじらないで愛する出世には、意義があるのです。ソロモン王は、ある例えを使います。ある若者は、多分「愚かな王」によって、懲らしめられ、「投獄」にいれられ、「貧しかった」のです。しかし、彼には、優れた「知恵」があったので、ようやく「王」になったのです。しかし、民は、初め彼の「側についた」にも関わらず、「民」は、後に「彼を喜ばなかった」のです。ソロモン王は、そこまで出世しても、大統領や総理大臣になっても、「これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。」
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーベンは、ナポレオン・ポナパルトが当時のヨーロッパの蔽っていた腐敗政治と権力を撃滅(げきめつ)し、ヨーロッパを一新する英雄と目(もく)していたのです。ですから、交響曲変ホ長調第3番をナポレオンに献呈しょうとしていました。しかし、ナポレオンは、最後に大統領や皇帝となることを選んだのです。ベートーベンは失望し、憤激(ふんげき)し、楽譜の表紙を引きさいて、「あの男も偽物だった。おのれの虚栄心と野心をみたすために民衆の権利を踏みにじる暴君にすぎなかった。」と怒ったのです。そして、楽譜に、「シンフオニア・エロイカー一人の偉人を追懐して」とイタリヤ語で書きあらためました。「昨日、颯爽(さっそう)と登場した革命家が、今日はもう変身し始め、明日は旧権力者に輪をかけた暴君へと変る」小畑進。
出世は、‘王’や政治家の問題だけではりません。“他人事”ではありません。アメリカでこのような表現があります。“He was climbing up the ladder of success, but found it was leaning against the wrong wall.”「彼は成功のハシゴを上っていたが、間違った壁に置かれていたことに発見した。」自分が創り主を無視し、人を踏みにじりながら、上っていくと確かに間違った壁で、「空しいのです。」そのハシゴが壊れるか、壁が倒れるかの可能性があります。しかし、神の恵みによって、降りることが出来るのです。立ち止まって、自分の過ちに目覚めて、神を自分の信頼と希望にするのです。真の神には、「空しさ」はなく、この上もない意義と意味があるのです。
出世を極めたナポレオンは、晩年こう書きました。「私は人間を知っている。そした、私が言っておくがイエス・キリストは単なる人間ではない。彼と他の世界の全ての人と比べる言葉はない。アレキサンドル、カエサル、カール大帝と私は帝国を建設した。でも、私たちの天才的創造は何に基づいたのか?権力によって。イエス・キリストは、愛によって帝国を建設した。そした、今は、何百万人は彼のために喜んで命を捧げるだろう。」人を愛し、人に仕え、人のために十字架上で命を捧げた主イエス・キリストに本当の望みがあり、この方のように人を愛し、人に仕え、人のために命を捧げるのが本当の“出世”であるのです。
神を無視し、人を顧みないで、富をむさぼり、出世するのは『孤独』ですし、「空しい」、とソロモン王は断言しています。個人主義は危険です。しかし「三つ撚りの糸は簡単には切れない」のです。先ず、真実な恩方イエス・キリストを「自分の望み」とすると、頼り合うことは、可能であるし、「空しさ」ではなく、真実な意義と知恵があるのです。