伝道者によるとソロモン王は、「知恵を。。。一心に尋ね、探り出そうとした。。。 だれよりも知恵を増し加えた。。。多くの知恵と知識を得た。。。一心に知恵と知識を狂気と愚かさを知ろうとした。」ソロモン王は、熱心に知識や、知恵を極めようとしました。
しかし、ソロモン王は、これを喜びではなく、「労苦」、「辛い仕事」、「空しい」、「風を追うようなもの」(2回)であると言っています。最後にこうまとめてあります。「実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。」知識や、知恵を本当に極めると、このように実感するのです。実に空しいのです。
ベスト・セラー"心の知能”(Emotional Intelligence)でダニエル・コールマンは、こう書いています。「IQがどんなに高くても、それは幸運、名誉や人生の幸せを保証させない。」(A high IQ is no guarantee of prosperity, prestige, or happiness of life.) 逆に、牧師D.マーテン・ロイドジョンズは、人類が教育のレベルを上げるたびに犯罪が増えて来た、と書きました。
東大や、京大を出ている「霞ヶ関」に知識がとても多いでしょうが、本当の意味で知恵を持って国民に仕えているのか、国民は疑問を持っている思います。その教育は生きているでしょうか?逆に、与野党の政治家と国民は、知識の宝庫であるはずの官僚に失望しているのではないでしょうか?
私達の多くは、ただの知識には限度があると認めます。しかし、人生に知識を適用する知恵は特別だ思います。”Know how"や人生に知識を適用する知恵は大事だと思います。確かに、タイミング良くもの考えたり、感じたり、語ったり、行動することは大事です。聖書の箴言は、知恵の宝庫です。
しかし「人間は考える葦である」とパスカルは言いました。アメリカ人は、「フランクリンの十三徳」を書いたアメリカの知識人ベンジャミン・フランクリンを讃えます。最も日本人の歩みを影響しているのは賢人の孔子だと私は思います。最近、「佐賀のがばいばあちゃん」の知恵が漫画、テレビドラマや映画で人気になっています。しかし、この聖書の箇所は、人間の「知恵」に限度がある、とあります。
教会は、「教える会」と書きますが、教会の’教育’は、神と人への愛に結びついているでしょうか?教義によって、聖書を体験し、創り主を礼拝することよりも、単なる知識や理屈で終わってはいないでしょうか?自分の心を見て、悩み悲しみます。
どんなに知恵があっても「曲がっているものを、まっすぐにはできない。なくなっているものを、数えることはできない。」知恵があっても、コントロールできないものは多すぎるのです。”死”を含めてです。
伝道者の最後の方に、ソロモン王は、真の知恵について語っています。「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を恐れ敬えよ。』」先ず、「はじめに神」(創世記1:1)であるお方を私達自身の人生の’はじめ’〜最も重要なところ〜に位置づけることです。真に超越したお方です。
この超越したお方とは、私達人類を尋ねた主イエス・キリストです。聖書・コロサイ2:3には「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています」とあります。ソクラテスはこう言いました。「世の全ての知恵は、この世を去って行く時の小さないかだに過ぎない。船で旅するためにより確かな土台、例えば神の言葉、がもしあったら。」ソクラテスは、イエス・キリストを求めてたと思います。
聖書で言う知恵とは一般とは異なった知恵です。イエスは、へりくだったところで生まれ、いわゆる’罪人’(つみびと)の間で歩み、その罪人の罪を代わりとなって負い、裁きを受け、死に、三日目に復活しました。この方とその御業に、私達の心を潤す究極的な知恵、満足と愛があるのです。「知恵」と言う言葉どおり、本当の恵みを知るのです。
私達は、知識や、知恵を追求すべきです。私は、学士や、修士を持っています。信州大学で英会話や英語演習を教えました。今も、上高瀬小学校で英語の協力をしています。教育は、大事です。本を読むことは大事です。私の趣味は、温泉と読書です。知識と知恵をもって賢く生きるのは大事です。
私はあることを恐れています。私達は、教育を「神」や「救い主」にしているのではないでしょうか?私達は、教育に全ての希望を起き、それに自分を捧げ、「崇拝」しているのではないでしょうか?教育であれ、何であれ、私達が最も重視してるものが、私達の神になっているのです。
知恵と知識は、究極的な満足を与えることはできません。『主よ、あなたは私達をご自身のために創られました。私達は、あなたに安らぐまで、決して安らぐことはないのです。』聖アウグステヌス。
創り主のみがその満足を与えることができるのです。実に、創り主御自身が私達の満足であるのです。CSルィス博士は、こう書きました。「主よ、どうして答えがないか理由がわかる。あなた御自身が答えである。あなたの御顔の前で疑問は去ってゆく。」