聖書・伝道者の書1:3−11「この地上でいくら労苦しても、何の益もない。いくら時代が変わっても、地は何も変わらない。太陽は、昇ったり沈んだりして、同じことを繰り返す。風もあちらに吹いたり、こちらに吹いたりして、ただ空気が動いているにすぎない。川の水も海に注いでは、また、もとに帰り、同じことを繰り返す。すべては無意味な反復(はんぶく)を繰り返すにすぎない。歴史は繰り返し、この地上に全く新しいものはない。たとい誰かが、『これはあたらしいものだ』と言っても、すでにあったものだ。過去にあったものは、人の記憶に残っておらず、将来起こることは、誰も知らない。」
聖書・伝道者の書1:8「言葉に表せないほど、すべてのものはものうい(英:wearisome/ 疲れはてさせる)。」なぜでしょうか?伝道者1:8の文脈を見ると分かります。ものごとはただただ繰り返して繰り返して、9節「日の下に新しいものは一つもない。」「時代」、「太陽」、「風」、「川」、「歴史」。これらは、ただただ繰り返されます。
3節、「日の下で、どんなに労苦しても、その人に何の益になろう。」朝起きて、歯を磨いて、朝ご飯食べて、会社まで行って、仕事をこなして、家に帰って、夕ご飯食べて、お風呂に入って、テレビを見て、寝る。「昨日もウドン、今日もウドン。。。」繰り返し繰り返し、同じことをする、同じ仕事をする。仕事においても、何の益になるのか分からないので、疲れはててしまうのです。
私達は、人間で、動物や、機械ではないのです。動物や、機械は、繰り返しても繰り返しても、「益」や意義について考えません。しかし、創り主に「似せて創られた」(創世記1:26,27)人間は、動物や、機械と違って、意義について、考えたり、思いめぐらしたりするのです。
人間が機械を作る目的があるように、創り主が私達人間を創る目的があるのです。動物の創られた一つの目的は、人間が動物を喜ぶためです。人間の創られた一つの目的は、創り主が人間を喜ぶためです。創世記1章に、自然や、人間について「神はそれを見て、それは良かった、。。。それは非常に良かった」と思われたとあります。
人間が、何一つ仕事であれ労苦をする前に、たとえ何も出来なくても、創り主は、人間を喜んだのです。「神に似せて創られた」私達人間が、創り主から離れ迷っていることを認め、創り主に’里帰りする’と、安らぐことが出来るのです。創り主に安らぐと、仕事だけではなく、人生全てにも意義が与えられるのです。
私達人間は、自転車から降りて、立ち止まる必要があります。回りの自然を見て、創り主の恵み、また、創り主御自身を喜び楽しむ必要があります。疲れすぎて倒れる前にしませんか?
人の罪を負うって死なれたイエス・キリストは、こう言いました。「全て、疲れた人、重荷を負うっている人は、私のところに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます。」聖書・マタイ11:28。
『主よ、あなたは私達をご自身のために創られました。私達は、あなたに安らぐまで、決して安らぐことはないのです。』聖アウグステヌス。
※「空の空」の”1”は、Older Posts にあります。