Friday, February 25, 2011

「いつでも赦す」


『そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」』聖書・ルカ 23:34 *コメント:イエス・キリストの十字架の罪の赦しを深く体験している者は敵を赦し愛し、その為に祈るのである。下の実話がそれを例えている。キリストの十字架は、政治であろうとも、極めた現実を優れた影響を与える。

南アフリカの平和革命にキリスト教信仰が重要な役割を果たしたことを、ニュースほとんど報じない。ヘンリー・キッシンジャーに率いられた調停チームは、インカタ自由党を選挙に参加させようと説得したが、同党は応じず、すべての望みを断念せざるをえなかった。その後、ケニヤから来たクリスチャン外交官がすべての首領と個人的に会い、彼らといっしょに祈り、彼らの思いを変えるのに一役買ったのである。(不思議なことに、飛行機のコンパスの不具合で一便遅れたせいで、この重大な話し合いが実現した)。

ネルソン・マンデラは、復讐ではなく、赦しと和解のメッセージを携えて、二十六年の投獄生活から出てきたとき、「恵みでないもの」の鎖を断ち切った。FW・デ・クラークは南アフリカの教会の中で最も小さく、最も厳格なカルバン主義の地盤から選出されたが、彼自身が感じたのは、後に「召命という強い感覚」と述べたものだった。彼は教会員に、「神は南アフリカの全ての人を救う為に私を召しておられます。たとえそのことを白人たちが否定したとしても、です。」と語った。

有色人種の指導者たちから、アパルトヘイトについて謝罪を求められ、デ・クラークはたじろぐ。アパルトヘイトを始めた人の中に自身の父親もいたからである。しかし、主教デスモンド・ツツは、南アフリカにおける和解のプロセスは赦しによって始まると信じ、その信念を貫いた。ツツによれば、「私たちが世界に教えることのできる教訓、ボスニア、ルワンダ、ブルンジの人々に教えることもできる教訓があるとしたら、それは、私たちがいつでも赦す、ということです」。

多数派の有色人種が政治権力をもつ今、彼らは正式に赦しの問題を考える。法務大臣が政策を述べるときには、本当に神学的な響きがある。彼は、だれかが被害者に代わって赦すことはできない、と言う。被害者は、自分自身のために赦さなければならないのだ。そしてだれも全容を解明しないで赦すことはできない。なにが起きたのか、そしてだれが何をしたのかがまず明らかにされなければならない。また、その残虐行為を行った人々は、その行為が赦される前に赦しを求めなければならない、と。南アフリカの人々は自分たちの過去を忘れるために、着実に過去を思い出している。。。。。

しかし、赦しがどれだけ複雑であろうが、ともかくこれを追い求める国は、少なくともその代替物— 赦そうとしないことー のもたらす恐ろしい結果を避けようとするだろう。大量虐殺と内乱の場面の代わりに世界が見たのは、南アフリカの現地の人々が長く、時には二キロ以上も続く列をなし、生まれた初めて投票する機会を得たことを喜び、「踊っている」光景だった。

フィリップ・ヤンシー