Sunday, December 25, 2011
「地には平和」
Thursday, December 22, 2011
あなたがたのために貧しくなられた
Tuesday, December 20, 2011
“助けてくれー”
Friday, December 16, 2011
「主を恐れ敬うことは知識のはじめ」
Thursday, December 15, 2011
「人を恐れることは罠である。」
Monday, December 12, 2011
「子どものような」
*「子どものような」心は、謙って、素直に頼る心。
Sunday, December 11, 2011
3月11日、全ての希望は失われた
Wednesday, December 7, 2011
「そのいのちをもってね。」
Sunday, December 4, 2011
Every Heart That is Breaking...
Saturday, December 3, 2011
『本当の意味では虹が見えない。』
「人間がアメーバの突然変異から来た、と言う科学者は、本当の意味では虹が見えない。そして、それは非常に残念な事だ。」永井隆
“A scientist who say we came from a chance mutation of amoeba can’t really see rainbows, and that’s a great pity.”
「初めに、神は天地を創造された。」聖書・創世記1:1
Wednesday, November 30, 2011
Monday, November 28, 2011
『隣人を自分のように愛しなさい。』
『イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」』聖書・マルコ12:29−31
病人は、造り主の摂理を信じ、キリストの十字架の崇高な愛を受け入れ、その愛を思いめぐらすと、隣人愛がより注がれるのです。そして、病人であっても、より「自分のように隣人を愛せる」のです。永井隆は、彼の最後に住処を如己堂<写真>と名ずけました。彼は、本気で隣人愛を説き、生きていました。
Friday, November 25, 2011
医者の姿勢
永井隆は、医者の姿勢を語った。医者にとって一番大事なのは技術ではない。人間は機械ではない。人間は、体と魂、両方。医者は、患者と共に苦しむ。患者が恐れていれば、医者も恐れる。患者が「ありがとう」と言えば、医者もそう言う。患者が老いた方なら、父母のように扱う。子どもなら、自分の子どものように。一人一人の患者は、あなたの兄弟、姉妹、父母、すなわち家族である。レントゲンなどを何回もチェックする。医者は、神に召される聖職者である。永井はこう言った。『私は、これを発見した時、私が診察していた患者一人一人のために祈りはじめた。』(英文:When I realized that, I found myself praying for each patient I treated.)
「喜ぶ者と一緒に喜び、泣く者と一緒に泣きなさい。」聖書・ローマ12:15
Tuesday, November 22, 2011
「神様、ハンセン病を感謝します。」
彼は美し妻と娘から引き離されました。彼は、失望し、自殺しようとしました。しかし、永井隆の死に向かっていても平安があった話しを聞いて、文通しました。彼は、キリストと信仰に導かれ、全ては恵みである事を覚えた。50年たっても彼はこう言えました。「神様、ハンセン病を感謝します。」
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
Sunday, November 20, 2011
彼らの研究は祈りとなる。
Saturday, November 19, 2011
永井隆と原子力
『原子力は、神が宇宙に秘めた秘密。科学者はその秘密を解かした。これは、人類にとって大きな前進となるか?それとも、地球を滅ぼすか?原子力は、人類が生き残るカギなのか?それとも、人類の完全な破滅となるのか?真実な宗教だけがこれを導くものとなる、と私は思う。』永井隆
「主を恐れ敬うことは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」聖書・箴言1:7
永井は、二回被爆しています。彼のエックス線の研究で一回、また長崎の原爆で一回。彼は、それでも、原子力の可能性を否定していなかったのです。しかし、彼は、神様抜きでそれについて考えることの危険性をも考えていたのです。原子力を含める自然の全てを創った創り主である神を『神』として恐れ敬うこをの重要性、造り主に対して、また(原子力を含める)自然に対する謙った心の必要性、神による知恵と分別のよって研究をする必要性を研いでいたと思うのです。ある人は、知恵は、恵を知る、と言いました。私たちは、イエス・キリストの十字架の恵を深く体験し、科学を含めるあらゆる分野にこの恵を適用したいものです。
<参考>あなたのみわざはくすしく。。。
Friday, November 18, 2011
「祈って下さい」
永井隆の最後の日が近かった。永井は、こうつぶやいた。「しかし、とても痛いです。イエス様がすぐに来て下さったら。祈って下さい。ぜひ、祈って下さい。」医者は、永井にモルヒネを討った。彼の最後の言葉は「祈って下さい」であった。そして、天に召された。そこにいた方は、このように平安をもって死んでいく人を見た事はなかった。永井は、信仰に入るときも、天に召されるときも、祈りによってイエス・キリストに出会った。彼は、医者・科学者でありましたが、それ以上に祈りの人でした。
「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。」 聖書・ヤコブ5:13
Wednesday, November 16, 2011
「あなたのキリスト教信仰は、痛みを亡くす『痛み止め』ではない。」
永井隆は、原爆を体験した、母親を失った、自分の二人の子どもにこう語りました。父親の彼もそろそろ天国に召されるのでした。「あなたのキリスト教信仰は、痛みを亡くす『痛み止め』ではない。」道は、厳しい寂し道であると、と子どもに教えました。しかし、「神は、けしてあなたがたを見捨てたわけではない。多くの聖人は、痛みを体験した。病人は、祈りによって癒されるときはある。私は、白血病から奇跡的に癒される可能性はあるし、それはよい事だ。癒されなくても、それも良い事だ。」
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。。。。 死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」聖書・ローマ8:28、39
Tuesday, November 15, 2011
His friendship...
Sunday, November 13, 2011
Saturday, November 12, 2011
『平安』
「全ての人を愛し、神の摂理を信じなさい。そうすれば、平安を見つけます。」永井隆 “Love everyone and trust His providence, and you will find peace.”
Friday, November 11, 2011
悲しむ者は幸いです。
永井隆は、子どものお母さんや自分の死の後*、子どもは、孤独を体験し、泣くと子どもに言いました。神の前で泣くように勧めました。泣くことは良い事であると、教えました。永井が体験したイエス・キリストの言葉を引用しました。「悲しむ者は幸いです。その人は慰められます。」(聖書・マタイ5:4)悲しんだら、イエス様が涙を拭い去って下さる、と教えました。
イエス・キリストは、十字架の苦しみにおいて、永井の子どもたちのために、代わりとなって、涙を流し、悲しまれたのです。ですから、幸いであり、慰められるのです。
Thursday, November 10, 2011
立石尚志牧師
Wednesday, November 9, 2011
「空の空」14
「良い名声は良い香油にまさり、死の日は生まれる日にまさる。祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。悲しみは笑いにまさる。顔の曇りによって心は良くなる。知恵ある者の心は喪中の家に向き、愚かな者の心は楽しみの家に向く。知恵ある者の叱責を聞くのは、愚かな者の歌を聞くのにまさる。愚かな者の笑いは、なべの下のいばらがはじける音に似ている。これもまた、むなしい。しいたげは知恵ある者を愚かにし、まいないは心を滅ぼす。
事の終わりは、その初めにまさり、忍耐は、うぬぼれにまさる。軽々しく心をいらだててはならない。いらだちは愚かな者の胸にとどまるから。『どうして、昔のほうが今より良かったのか』と言ってはならない。
このような問いは、知恵によるのではない。資産を伴う知恵は良い。日を見る人に益となる。知恵の陰にいるのは、金銭の陰にいるようだ。知識の益は、知恵がその持ち主を生かすことにある。
神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。」
聖書・伝道者の書7:1−14
英語では、good(グッド), better(ベター), best(ベスト)、と言いますが、『何がgood(良い)だけではなく、何がbetter(勝る)、いや、best(最善)か?』と私たちは、問うべきなのです。問題があるときに、“What is best?”<何が最善なのか?>と問うべきです。この聖書の箇所で、何がbetter(勝る)かを先ず説いて、最後に何がbest(最善)を最後に説きます。
「勝る」(まさる)(英:better)のような言葉は8回もこの箇所に出て来ました。はじめに出てくるbetter(勝る)は、良くわかります。「良い名声は良い香油にまさる。」しかし、次の文は、不思議です。「死の日は生まれる日にまさる。」後で「悲しみは笑いにまさる。」とあります。常識と逆です。普通は、「笑は、悲しみにまさる」のです。少なくっても、多くの情報源のテレビを見ると、お笑い番組が多いです。笑うことは、最も大事だと社会は教えているように思わされます。
しかし、ソロモンは、こう説明しています。「知恵ある者の叱責(しっせき:警告)を聞くのは、愚かな者の歌を聞くのにまさる。」馬鹿者の歌や、お笑いを聞くよりも、賢者の注意や非難を聞いた方が良いと言っているのです。涙があってもです。笑いや、歌がなくなり、涙や、悲しみをもたらしても忠告は尊い、と言っているのです。
私たちは、私を含めて、忠告を聞きたくはありません。プライドが傷つきます。しかし、都合の良いことばかりを聞くことは非常に危険です。真実ではないからです。創り主は、聖書に、人間にとって、都合の悪いことを書いています。痛くても、涙があっても、神の忠告を聞いていますか?神は、愛するのもの懲らしめるのです。ですから、都合悪くても、神の言葉〜聖書〜を聞いて下さい。『神また救い主は、唯一です。罪を悔いらためて、救い主イエス・キリストを信じなさい』と語っています。
天に召された小畑進牧師のこの箇所からの忠告です。「『メメント・モリ』(死を覚えよ)です。いつまでも生きていると思いこんで、うかうかと暮らしているが、死ぬんだぜキミ。いざという時の準備はできているのかねキミ。その時、何が何だかわからず、あわててとり乱し、日頃あなどっていた、どこやらの坊さんの「あほだら経」で葬られるというのかね。それとも、ちゃんと行くさきを知って、イエスさまの十字架の贖いをいただいているのかね。他人事ではないぜよ、君。。。。ウカウカとすごし、ヘラヘラと冗談ごかしの不明を悲しむがよい。キミの死は明日かも知れぬ。いや今日かも知れぬ。ただちに準備せよ。ウカウカ、ヘラヘラしていないで。」愛のムチですね。
「忍耐は、うぬぼれに勝る」とあります。試練の時、私たちは、色んな誘惑にあいます。「しいたげ」や「まいない」(わいろ)によって誘惑され、試練となります。試練や誘惑があって、自分は大丈夫と「うぬぼれ」たり、待てずに「いらだったり」します。現在の試練の虜(とりこ、捕虜)になって、過去を覚えて「昔の方がより良かった」と思う誘惑が来るのです。また『幸せはいっさいだめ』と思うのも危険もあるのだ、とソロモンは言っていまです。ですから、「忍耐」し、「試練」に教えられ、学ぶ必要があるです。
私たちは、アメリカと同じように、コンビニの社会に住んでいるのです。マックドナルド、ローソン、カップヌードル、レトルトカレー。香川の皆さんは、うどんです。私は、ざるうどんが好きです。アメリカも、日本も、待てない、耐え忍べない社会です。私も、アメリカと日本の社会の『子』です。
ある人は、こう言います。「聖書は読まない! なぜなら、太すぎるから、分かりにくいから、文化が違うから。」忍耐がないのです。。。。聖書は、極めて、世界のベストセーラーです。「忍耐」して、都合良いことも、都合悪いことも、読み、聞く必要があるのです。「ファーストフード社会」にマイナスの影響を受けて、極めて大事な宝に触れないことは、愚かです。。。。そうです。痛い忠告です。
ソロモン王は、「。。。知恵は良い。。。益となる」と言っています。「知恵」は、”Good”(グッド)であるし、”Better”(ベッター、勝る)でもあります。確かに、「知恵の陰(守り)にいるのは、金銭の陰(守り)にいるようだ。知識の益は、知恵がその持ち主を生かすことにある。」しかし、”Best”(ベスト)、すなわち最善ではないのです。
ソロモン王は、最善を語ります。「神のみわざに目を留めよ。」神ご自身とそのみわざに目をとめなさい、と言っています。何よりも創り主である「神」が大事で、そのみわざが大事なのです。私たちの知恵や私たちがすることよりも極めて大事です。
そのみわざは、どんなものでしょうか?唯一の神は、主権者である神、全ての歴史を治める「神」です。摂理を持って「神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。」神がしたことを変えることは出来ません。神が私たちに下さった「順境の日には喜ぶ」のです。同じように神が下さった「逆境の日には(私たちは)反省」するのです。私たちは、それを素直に受け止めて、従順であるべきです。「これもあれも神のなさること」なのです。
小畑進牧師は「神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか」と言う聖書の言葉について、こう書きました。「神は人間の歴史、また一人々々の人生のコースを一本調子でなく、曲げなさる。カーブで導かれる。『なんで曲げられるのか』と、口をとんがらかすことはない。神はその深い知恵で曲げられるのだし、神が曲げられたものを、私たちが真っすぐにはできない。足もとに気をつけて、われを取りもどすこともある。。。。コースが真っすぐな時は、順調と喜ぶ。しかし、難度が上がって、コースが曲がると逆境と呼ぶのか。いや、それは反省の時、上昇の時ではないのか!。。。。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。。。。 私たちの人生マラソンのコーチ(神)は百戦錬磨のベテランで、ちゃんとわきまえてコースを真っすぐにしたり、曲げたり、ペースをあげさせたり、落とさせたりして、導いてくださっているのだから。」
神のなさった「みわざ」は、優れています。天地を創り、歴史を治め、恵を豊かに豊かに注ぎます。歴史において神の一番優れた「みわざ」は、キリストの十字架による救いです。人が負うべき罪の永遠の罰(地獄そのもの)を、イエス・キリストが、十字架上で負いました。際立った恵です。私たちは、だたこの「神のみわざに目を留る」のです。キリストとその十字架を仰ぐのです。これが“Best”(ベスト)で、最善です。
祈り。。。「聖なる神さま。私どもは、おのれを知らず、知ろうともせず、たった一度の人生に不真面目です。自分の本性を見つめることに臆病であり、怠け者です。この第七章を土台にしておのれの姿を確かめれば、ただ望みはイエス・キリストの十字架とよみがえりの贖罪あるのみと、たよらせていただきます。へ理屈を捨てて、真っすぐにたよらせていただいて、正しい人生の歩み手として、導いていただけますように。」小畑進牧師
Tuesday, November 8, 2011
善通寺バプテスト教会
Sunday, November 6, 2011
「何かできる。」
原子爆弾が長崎に落とされた後、永井隆(医療博士)はこう言った。「私たちは、自分の個人の楽を忘れ、この私たちの町とこの国が立ち上がるまで働かなければならない。。。。私たち被爆者は、自分が可愛そうだと思ってはならない。自分一人一人ができる仕事がある。皆、病人でも、何かできる。」永井隆
英文
”All of us must forget personal comfort and must work until our city and our nation can rise again… We A-bomb sufferers must not feel sorry for ourselves. We have work to do, each doing what he can. Every one of us, even the sick, can do something.”
「 私は、私を強くしてくださる方(イエス・キリスト)によって、どんなことでもできるのです。」聖書・ピリピ4:13
Saturday, November 5, 2011
「被災地に行くように。。。」
Thursday, November 3, 2011
「彼の代わりになりたい。」
マキシミリアノ・マリア・コルベは、1930年日本に来て、長崎で修道院をはじめ、永井隆は彼を治療した。後、コルベは、ポーランドの大きな修道院の指導者になった。彼は、広く普及した新聞をはじめたから、ナチスは彼を捕らえ、アウシュビッツ収容所の16670番になった。
7月、ある人が脱出した。ナチスは、報復のために囚人10人を集めた。一人が「私のかわいそうな妻や子ども」とつぶやいた。コルベは、前に出た。「私には家族がない。彼の代わりになりたい。」コルベと他の9人に食料や、水をあげなかった。二週間、たってコルベと他の3人が生きていたが、ナチスが彼らを始末した。
「わたし(イエス・キリスト)があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」聖書・ヨハネ15:12−13
イエス・キリストは、十字架上で、コルベ神父のために「いのちを捨て」、コルベの「代わりとなった。」この上もない愛の犠牲である。コルベは、この莫大な愛に活かされて、隣人を愛し、「彼の代わりにたった。」
Wednesday, November 2, 2011
人のために自分を使い果たしてもいいのではないか?
永井隆が白血病になったことを聞いて彼は、寂しそうな友人に微笑んだ。「私たちは、現実的に見なければなりません。いつか私たち皆が患者になるのだ。末期患者になるのだ。」彼らがヘアを出た後、一人になった。マスクをとって、震えはじめた。そして、祈った。「主よ。私は非常に弱い。私には負へない。主よ、どうしてこんなに早く?妻も子どももいる。また、終わってない仕事がある。」ゲッセマネの園で苦しんだキリストを心にとめた。「主よ、私たち皆が十字架を負わなければならないことおっしゃった。しかし、。。。私は疲れている。また、この十字架はとても重い。」
ヘアを出る前に、レントゲン線の機械をじっと見た。この機械が死の『種を蒔いた』のだ。永井は落ち着きはじめた。博士号をとるためにこの機械が永井を助けた。また、いろんな人の治療を助けた。この機械は、もう新しくなく、ペンキが取れて、疲れ果てているように見えた。永井はこう思った。『この機械のように、人のために自分を使い果たしてもいいのではないか?』彼は、もう震えたはいません。平安が心にきた。感謝の心もあった。
『それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」』聖書・マタイ26:24−26
Tuesday, November 1, 2011
あなたのみわざはくすしく。。。
永井隆(医療博士)は、研究室でこう言った。「私たちの研究室は、宇宙と全ての真理を創った神の家の入り口である。」ある日、腎臓を研究していた時、彼は、神にひざまずいて祈ったのである。
永井は、研究しながら、あまりにも素晴しい人間の体を見て、神の御業を見たのです。そして、神に祈って、神を拝まずにいられなかったのです。
「わたしはあなたをほめたたえます。あなたは恐るべく、くすしき方だからです。あなたのみわざはくすしく、あなたは最もよくわたしを知っておられます。」聖書・詩編139:14
Sunday, October 30, 2011
『中国人も日本人も』
永井隆(医療博士)は、第二次世界大戦の泥沼にあったのに、「心に平安と自由を喜んでいた。」彼は、変わったのである。ある夜、ノートにこう書いた。彼は、手術の直前、中国兵の脱疽(だっそ)にかかった足を洗ったのである。負傷した日本兵に対して心から愛があったように、負傷した中国兵に対しても愛があった。こう書いた。「私は、中国に来たのは、誰かを負かすためや、戦争に勝つために来たのではない。私は、負傷者を助けるために来たのだ、中国人も日本人も、民間人も軍人も。」
* 永井は、イエス・キリストによって、「心に平安」をもっていました。『もし敵であった私たちが、御子(イエス・キリストの十字架)の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです』聖書・ローマ5:10。それで、永井は、値無しの愛で愛されたように、彼は、敵をも愛し、医者として、彼らの体を癒そうとしました。イエス・キリストの言葉『わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。』聖書・マタイ5:44