永井隆が白血病になったことを聞いて彼は、寂しそうな友人に微笑んだ。「私たちは、現実的に見なければなりません。いつか私たち皆が患者になるのだ。末期患者になるのだ。」彼らがヘアを出た後、一人になった。マスクをとって、震えはじめた。そして、祈った。「主よ。私は非常に弱い。私には負へない。主よ、どうしてこんなに早く?妻も子どももいる。また、終わってない仕事がある。」ゲッセマネの園で苦しんだキリストを心にとめた。「主よ、私たち皆が十字架を負わなければならないことおっしゃった。しかし、。。。私は疲れている。また、この十字架はとても重い。」
ヘアを出る前に、レントゲン線の機械をじっと見た。この機械が死の『種を蒔いた』のだ。永井は落ち着きはじめた。博士号をとるためにこの機械が永井を助けた。また、いろんな人の治療を助けた。この機械は、もう新しくなく、ペンキが取れて、疲れ果てているように見えた。永井はこう思った。『この機械のように、人のために自分を使い果たしてもいいのではないか?』彼は、もう震えたはいません。平安が心にきた。感謝の心もあった。
『それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」』聖書・マタイ26:24−26