「良い名声は良い香油にまさり、死の日は生まれる日にまさる。祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。悲しみは笑いにまさる。顔の曇りによって心は良くなる。知恵ある者の心は喪中の家に向き、愚かな者の心は楽しみの家に向く。知恵ある者の叱責を聞くのは、愚かな者の歌を聞くのにまさる。愚かな者の笑いは、なべの下のいばらがはじける音に似ている。これもまた、むなしい。しいたげは知恵ある者を愚かにし、まいないは心を滅ぼす。
事の終わりは、その初めにまさり、忍耐は、うぬぼれにまさる。軽々しく心をいらだててはならない。いらだちは愚かな者の胸にとどまるから。『どうして、昔のほうが今より良かったのか』と言ってはならない。
このような問いは、知恵によるのではない。資産を伴う知恵は良い。日を見る人に益となる。知恵の陰にいるのは、金銭の陰にいるようだ。知識の益は、知恵がその持ち主を生かすことにある。
神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。」
聖書・伝道者の書7:1−14
英語では、good(グッド), better(ベター), best(ベスト)、と言いますが、『何がgood(良い)だけではなく、何がbetter(勝る)、いや、best(最善)か?』と私たちは、問うべきなのです。問題があるときに、“What is best?”<何が最善なのか?>と問うべきです。この聖書の箇所で、何がbetter(勝る)かを先ず説いて、最後に何がbest(最善)を最後に説きます。
「勝る」(まさる)(英:better)のような言葉は8回もこの箇所に出て来ました。はじめに出てくるbetter(勝る)は、良くわかります。「良い名声は良い香油にまさる。」しかし、次の文は、不思議です。「死の日は生まれる日にまさる。」後で「悲しみは笑いにまさる。」とあります。常識と逆です。普通は、「笑は、悲しみにまさる」のです。少なくっても、多くの情報源のテレビを見ると、お笑い番組が多いです。笑うことは、最も大事だと社会は教えているように思わされます。
しかし、ソロモンは、こう説明しています。「知恵ある者の叱責(しっせき:警告)を聞くのは、愚かな者の歌を聞くのにまさる。」馬鹿者の歌や、お笑いを聞くよりも、賢者の注意や非難を聞いた方が良いと言っているのです。涙があってもです。笑いや、歌がなくなり、涙や、悲しみをもたらしても忠告は尊い、と言っているのです。
私たちは、私を含めて、忠告を聞きたくはありません。プライドが傷つきます。しかし、都合の良いことばかりを聞くことは非常に危険です。真実ではないからです。創り主は、聖書に、人間にとって、都合の悪いことを書いています。痛くても、涙があっても、神の忠告を聞いていますか?神は、愛するのもの懲らしめるのです。ですから、都合悪くても、神の言葉〜聖書〜を聞いて下さい。『神また救い主は、唯一です。罪を悔いらためて、救い主イエス・キリストを信じなさい』と語っています。
天に召された小畑進牧師のこの箇所からの忠告です。「『メメント・モリ』(死を覚えよ)です。いつまでも生きていると思いこんで、うかうかと暮らしているが、死ぬんだぜキミ。いざという時の準備はできているのかねキミ。その時、何が何だかわからず、あわててとり乱し、日頃あなどっていた、どこやらの坊さんの「あほだら経」で葬られるというのかね。それとも、ちゃんと行くさきを知って、イエスさまの十字架の贖いをいただいているのかね。他人事ではないぜよ、君。。。。ウカウカとすごし、ヘラヘラと冗談ごかしの不明を悲しむがよい。キミの死は明日かも知れぬ。いや今日かも知れぬ。ただちに準備せよ。ウカウカ、ヘラヘラしていないで。」愛のムチですね。
「忍耐は、うぬぼれに勝る」とあります。試練の時、私たちは、色んな誘惑にあいます。「しいたげ」や「まいない」(わいろ)によって誘惑され、試練となります。試練や誘惑があって、自分は大丈夫と「うぬぼれ」たり、待てずに「いらだったり」します。現在の試練の虜(とりこ、捕虜)になって、過去を覚えて「昔の方がより良かった」と思う誘惑が来るのです。また『幸せはいっさいだめ』と思うのも危険もあるのだ、とソロモンは言っていまです。ですから、「忍耐」し、「試練」に教えられ、学ぶ必要があるです。
私たちは、アメリカと同じように、コンビニの社会に住んでいるのです。マックドナルド、ローソン、カップヌードル、レトルトカレー。香川の皆さんは、うどんです。私は、ざるうどんが好きです。アメリカも、日本も、待てない、耐え忍べない社会です。私も、アメリカと日本の社会の『子』です。
ある人は、こう言います。「聖書は読まない! なぜなら、太すぎるから、分かりにくいから、文化が違うから。」忍耐がないのです。。。。聖書は、極めて、世界のベストセーラーです。「忍耐」して、都合良いことも、都合悪いことも、読み、聞く必要があるのです。「ファーストフード社会」にマイナスの影響を受けて、極めて大事な宝に触れないことは、愚かです。。。。そうです。痛い忠告です。
ソロモン王は、「。。。知恵は良い。。。益となる」と言っています。「知恵」は、”Good”(グッド)であるし、”Better”(ベッター、勝る)でもあります。確かに、「知恵の陰(守り)にいるのは、金銭の陰(守り)にいるようだ。知識の益は、知恵がその持ち主を生かすことにある。」しかし、”Best”(ベスト)、すなわち最善ではないのです。
ソロモン王は、最善を語ります。「神のみわざに目を留めよ。」神ご自身とそのみわざに目をとめなさい、と言っています。何よりも創り主である「神」が大事で、そのみわざが大事なのです。私たちの知恵や私たちがすることよりも極めて大事です。
そのみわざは、どんなものでしょうか?唯一の神は、主権者である神、全ての歴史を治める「神」です。摂理を持って「神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。」神がしたことを変えることは出来ません。神が私たちに下さった「順境の日には喜ぶ」のです。同じように神が下さった「逆境の日には(私たちは)反省」するのです。私たちは、それを素直に受け止めて、従順であるべきです。「これもあれも神のなさること」なのです。
小畑進牧師は「神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか」と言う聖書の言葉について、こう書きました。「神は人間の歴史、また一人々々の人生のコースを一本調子でなく、曲げなさる。カーブで導かれる。『なんで曲げられるのか』と、口をとんがらかすことはない。神はその深い知恵で曲げられるのだし、神が曲げられたものを、私たちが真っすぐにはできない。足もとに気をつけて、われを取りもどすこともある。。。。コースが真っすぐな時は、順調と喜ぶ。しかし、難度が上がって、コースが曲がると逆境と呼ぶのか。いや、それは反省の時、上昇の時ではないのか!。。。。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。。。。 私たちの人生マラソンのコーチ(神)は百戦錬磨のベテランで、ちゃんとわきまえてコースを真っすぐにしたり、曲げたり、ペースをあげさせたり、落とさせたりして、導いてくださっているのだから。」
神のなさった「みわざ」は、優れています。天地を創り、歴史を治め、恵を豊かに豊かに注ぎます。歴史において神の一番優れた「みわざ」は、キリストの十字架による救いです。人が負うべき罪の永遠の罰(地獄そのもの)を、イエス・キリストが、十字架上で負いました。際立った恵です。私たちは、だたこの「神のみわざに目を留る」のです。キリストとその十字架を仰ぐのです。これが“Best”(ベスト)で、最善です。
祈り。。。「聖なる神さま。私どもは、おのれを知らず、知ろうともせず、たった一度の人生に不真面目です。自分の本性を見つめることに臆病であり、怠け者です。この第七章を土台にしておのれの姿を確かめれば、ただ望みはイエス・キリストの十字架とよみがえりの贖罪あるのみと、たよらせていただきます。へ理屈を捨てて、真っすぐにたよらせていただいて、正しい人生の歩み手として、導いていただけますように。」小畑進牧師