織田信長、豊臣秀吉と徳川家康は、高山右近と対決する必要があると、彼らは思いました。その支配下にあった右近は、自分の良心に、いやイエス・キリストに従いました。
右近は、1563年さわ城で洗礼を受けました。熱心な仏教徒であった右近の父ー高山友照ーは、宣教師ガスパー・ビレラと討論を申し込みました。ビレラの代わりに目の不自由なロレンゾ兄(改心した元仏教の琵琶法師)が討論しました。右近の父とその側近は、ロレンゾの説明したキリスト教信仰に感動しました。そして、右近を含め家が洗礼を受けました。
右近のキリスト教信仰は、彼を人を恐れることから、全ての野心から、解放したのです。全てが取られても、誰も信仰を取ることは出来なかったのです。秀吉に関わる時も、主イエス・キリストが第一と示すことを遠慮しませんでした。
信長の葬儀は、秀吉によって準備されました。仏壇に線香を捧げる時、右近は、席から立ち上がりませんでした。目立ちましたが、秀吉は、それを黙認したのです。
後、賤ヶ岳の戦いは、右近は、ひどく負けました。彼は、けがをして、多くの家臣を失いました。それでも、秀吉は、彼を大事にし、収益を上げました。
宣教師グレギオ・デ・ケスペデズによると秀吉は、右近についてこう言ったそうです。「生活の聖さ(きよさ)において、右近を真似できる者はいない。」
「人を恐れることは罠である。主を信頼する者は高い所に置かれる。」聖書・箴言29:25