昔、中国で儒教の先生がクリスチャンになりました。その弟子たちが来て「先生はいつでも軽挙妄動をおさめておりながら、なんですか!あの毛唐がきて、いっぺん説教を聞いただけでクリスチャンになるなんて。それは聞こえません」と抗議を申しこんみました。そこで先生は次のような例えをしました。
「私は野原を歩いて、足を滑らせて野中の井戸に落ちてしまった。“助けてくれー”と叫んでいると、孔子が通りかかって声をかけてくれた。『お前はどうしてこんなところにいるのかね。』『野原を勝手に歩いていたもんですからおこっちたのです。』『それはいかん。ちゃんと人の通る道がある。道でないところをお前が歩いたから、こういうことになったんじゃ。以後気をつけれよ。ちゃんと人間の道をあるけよ』と教えて下さいました。けれども今、野中の井戸に落ちている私は、そんなことは千も万も承知しています。この井戸から出してくださる人が欲しいのです。
また“助けてくれー”と叫んでいると、足音が聞こえてきた。やれやうれしやと思ってみると、お釈迦さんでした。そしてまた『どうしてお前は落ちたのか。ああかわいそうなことをしたものよ。なんでも気をつけないとこんな目にあうぞ。助けてつかわすから手を出しなさい』とおしゃいました。手をのばしたら、お釈迦さんも手をのばしてくださまたが、どうしても一尺ばかりたりながったのです。そこでお釈迦さんは『さてさてお前は業が深いのう。前世の因縁じゃ、あきらめよ』とおっしゃって、向こうへ行ってしまいました。
だが、あきらめきれないので、“助けてくれー”と、なおも叫んでいました。するとこんどはイエス・キリストが来ました。いやなやつが来たな、と思っていやな顔をしていたけれども、なにせ、だれでもいいから助けてむらおうと思って手をのばしたところが、どうしてもたりないのです。そうしたら、そのキリストが井戸の中にとびこんで来て、しゃがんで『私の肩にのりなさい』というから、その肩にのったら、その肩の足をサーッと押しあげて外へ出してくれた。『もう二度と来るんじゃないよ』と言ってくださいました。
「だから私は、キリスト教を信じたんだよ。」
「人の子(イエス・キリスト)は、失われたものを捜して救うために来たのである。」聖書・ルカ19:10