Tuesday, January 31, 2012

今井信朗ー坂本龍馬を斬った男


今井信朗は、慶応3年11月15日、京都、近江屋で、坂本龍馬を斬った男として知られています。彼は、江戸で裁判をかけられていた時、死刑の覚悟していました。そして、敵であった西郷隆盛が「助命活動」をし、名優—龍馬を斬った男を赦したのです。

静岡県初倉村に行き、エドワード・クラークの殺害をもくろみました。が、横浜で教会の牧師の説教を聞くと、彼の心に一筋の光が差し込んだのです。彼は、静岡に帰って、聖書を学び、洗礼を受けました。四代村長にもなりました。また、前は、勝海舟を嫌っていたが、後に、勝海舟の葬儀に行って、涙を流した、と言われています。

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」イエス・キリスト、聖書・マタイ5:43−48

参考:聖書を読んだ侍たち


Saturday, January 28, 2012

西郷隆盛とキリスト教


西郷隆盛は、聖書のマタイの福音書の影響によって「敬天愛人」のモットーを持っていたそうです。彼は、自分の敵を愛し、降伏した敵に寛大でした。会津戦争の会津藩士にたいして寛大で、藩士は深く感謝したのです。彼は、こう思ったのです。「天(造り主)は私たちを等しく愛しいるから、私たちは愛する。」実は、西郷は、漢訳の聖書を大事にし、キリスト教に感化、影響されていただけではなく、「実は西郷さんが聖書を教えておられた」と言い伝えがあり、晩年においてキリスト教を信じていたのです。参考:BS歴史館 西郷隆盛 日本を変えたリーダー - YouTube

「神は、独り子(イエス・キリスト)を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。。。。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」聖書・1ヨハネ4:9−11、19−21

Thursday, January 26, 2012

勝海舟の信仰告白


勝海舟は、カッテンヂーケと言うオランダのクリスチャンにあい、キリスト教に深い関心をもったようです。勝海舟が日本の賛美歌の翻訳を始めた一人でした。次がその賛美歌です。

思ひやつれし君、

なにすとて、やつれし君ぞ、哀れその、思たわみて、

 いたづらに、我が世を経めや、あまのはら、ふりさけみつ、

 あらがねの、土ふみたてて、ますら雄の、心ふりおこし、

 清き名を、天に響かし、かぐはしき、道のいさをを、

 あめつちの、いや遠ながく、聞く人の、かがみにせむと、

 我はもよ、思ひたまはず、おほろかに、此の世をへしとおもやつれども

聖書の詩編102、103をもとにして、神を讃える歌であります。ある人は、これは、勝海舟の信仰告白であると言っています。勝海舟の「和魂洋才」の『洋才』は、キリスト教でありました。

勝海舟は、信仰を具体的に働かせて『江戸城無血開城』によって、江戸城を火の海にすることを避けた、と言われています。勝海舟は、静岡の伝道を容認、親戚の墓に「義人は信仰によって生きる」と刻みました。

「正しい者は信仰によって生きる。」聖書・ローマ1:17、ハバクク2:4

参考:勝海舟・最期の告白聖書を読んだサムライたち


Wednesday, January 25, 2012

人を恐れるよりも。。。


「愛するドイツ人よ。われらは目ざめよう。人を恐れるよりも、神を畏れよう。」マルテン・ルター

人を恐れることは罠である。主を信頼する者は高い所に置かれる。」聖書・箴言29:25

私たちは、特に都会からはなれると、互いに「人の目を気にする」ことを感じます。「出るくぎは打たれる」のように、少し変わったことをすると、いわゆる「白い目で見られる」のです。

1597年(慶長2年)豊臣秀吉は、治安維持のために五人組」と言う組織をはじめました。しかし、問題がありました。その主な理由は、キリスタン(クリスチャン)を抑圧するためでした。特に、三代徳川家光の頃から、信教の自由を容赦なく踏みつぶしました。

現在今も残る檀家制度も、この弾圧に用いられました。国民一人残らず寺に登録され、身分などが記録されました。キリスタンは、このように排除されました。

真っ向からの弾圧は、なくなっていますが、五人組や檀家制度の影響は、「世間を気にする」という雰囲気の中で今も十分に残っています。隣組は、その特徴を受け着いています。人は、聖書に書いてある「隣人愛」よりも、「人の顔をうかがう」のです。そして、最善でなくても「長いものに巻かれて」しまうのです。

このような環境に、聖書は人を恐れることは罠である」と教えているのです。人を恐れると、その人に対して最善が出来ないのです。逆に「主を信頼する」とありますように、天地創造の神を敬い、信頼することによって、解放され、愛の業が出来はじめるのです。

なぜなら、この天地創造の神が人となり、十字架上で私たちのためにいのちを捧げたのです。イエス・キリストのことです。彼がいのちを捧げるほど私たちを愛するなら、極めて信頼に値するお方です。また、この恵みの方を源にして、彼に学んで、人を恐れるのではなく、勇気を持って人を愛するのです。


Monday, January 23, 2012

フルート演奏者ソン・ソルナム


1月15日(日)、フルート演奏者ソン・ソルナム善通寺バプテスト教会で素晴らしい音楽を奏でました。また、彼が体験したキリストの"Amazing Grace"(驚くばかりの恵み)を語りました。主が誉め讃えられ、私は感動しました。 彼は、NHKの韓流ドラマ「イサン」「ボジュン」「ドンイ」の主題曲の作曲と演奏をしました。カーネギーホールでもソロ演奏の経験を持っています。フルートを吹く家内の奈帆にとって特別な礼拝でした。ソン・ソルナムが別の教会で吹くのを聞いてください。参考:YouTube

ソン・ソルナムの後、久保牧師が聖書の話をしました。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」ルカ19:10

Thursday, January 19, 2012

『ディオグネへの手紙』


「彼らは各自の国籍を有してはいても、寄留人の如くにし、すべてを巡礼者の如くに耐え忍ぶ。そして、その巡礼するすべての土地が彼らにとっては祖国であり、また、すべての国がその巡礼地でもある。彼らはすべての人と同じように妻をめとり、子供をもうける。けれども胎児を堕すようなことは決してしない。彼らは誰とでも食事を共にするが、ベッドを共にする事はない。彼らは肉の中にあるけれども、肉に従って生きない。彼らはこの地上に住むが、その国籍を天に持つ。彼らは法律の定めに従うけれども、その生活態度によって、定められた以上の理想を実現する。また彼らはすべての人を愛しているのに、すべての人は彼らを迫害する。彼らは無視せられ、処刑せられ、殺されている。けれども、彼らはかえって、そこに生命を獲得している。彼らは乞食でありながら、多くの人を富ましめ、万事に欠乏しながら、万事は彼らにとって豊かである。彼らは人に辱しめられながら、その辱めにおいて光栄を受け、彼らの名は人に嘲笑されながらも、そこにかえって彼らの正しさが証明される。彼らは罵られつつ祝福を与え、あしざまに取扱われて、かえってそこに光栄を受ける。彼らは善をなすために悪人として罰せられ、処罰されつつ、生命を獲得したかのように歓喜する。」

私たちは、キリストの恵みによって、こうありたいものです。『わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。。。隣人を自分のように愛しなさい。』聖書・マルコ12:29−31

上の引用は、AD150年ごろの無名の手紙『ディオグネへの手紙。』その中に、初代のキリスト者の先輩たちの姿が描きとどめられている。


Wednesday, January 18, 2012

仏教とキリスト教


1月8日(月)、香川県の教会が特別講演会をもちました。50名以上の牧師や信徒が参加しました。大和昌平教授が不思議なことを言いました。仏教の法然親鸞が、900年程前に『恵みによる救い』を説いでいた、と言いました。法然は、修行と共に恵みを教え、親鸞は、恵みのみを教えました。大和師は、聖書の異なった特徴は”創り主の恵みはキリストの十字架に表れている”と説明しました。

造り主は、人間の罪を見過ごすことは出来ないのです。なぜなら、主は、聖い聖い聖いお方だからです。しかし、いっさいの罪のないイエス・キリストは、私たちの罪を自分のものとし、十字架上で代わりとなって裁かれたのです。私たちの代わりに地獄の裁きを受けたのです。これが聖書で説く、愛と恵です。それを信じる、イエス・キリストをただ仰ぐものは、救われるのです。私たちは、創り主の計り知れない愛の対象となるのです。その恵みによって、神を愛し、隣人を愛し、『良い行い』をするのです。

法然と親鸞の実に1000以上前に使徒パウロがこう書きました。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」

キリスト者は、キリストの十字架のみ業の恵みを信じ味わい、その恵みと愛を人々に示すのです。「あなたの敵を愛しなさい」と言うキリストの言葉を覚えますが、敵であった私たちが創り主によって赦されてように、私たちは赦すのです。宗教改革のスローガンは、次の通りです。「信仰による救い。しかして、善き業への救い」に続くのです。

参考:法然と親鸞

Tuesday, January 17, 2012

実り豊かないのちを行きたい。


誰だって思っています。
実り豊かないのちを行きたい。
むずかしいことはいりません。
ありがとう。
ごめんなさい。
ゆるします。
それを分かち合った生きるなら。。。
品行方正によい人を生きるのがクリスチャンではありません。
むしろ、
弱さを知って、
神の助けをいただき、
祈り生きる。
そんな歩みをともにしませんか。

甲府キリスト福音教会・教会案内より

「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」イエス・キリスト、聖書・ヨハネ10:10−12

Monday, January 16, 2012

高松シオン教会


1月8日、私たちは、高松シオン教会で礼拝しました。家内の奈帆は、そこで洗礼を受け、親戚が礼拝し、奉仕している教会です。神様が何か特別なことをしているようです。主の恵みを讃美します。「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに」聖書・詩編107:1

Sunday, January 15, 2012

城・靖博


私は<城>という珍しい名字のせいか、初対面の人に「ご出身はどちらですか?」と聞かれることがよくあります。ご存知の方もいるでしょうが、城という名は九州に多く、私は熊本の八代という所で、小学校に上がるまでそこで育ちました。その後愛知や岐阜を点々と何度も引っ越しをしました。というのも私の父は(比喩的な意味でなく)やくざで普段働きもせず、家でごろごろし、夜は外へお酒を飲みに行く、そんな人でした。ですから引っ越しては家賃を滞納し、また引っ越す…そんなことが何度もあり、ご飯も満足に食べられないという時もありました。

 自分の親がどうやら他人の親とは違うらしい、そう気付いたのは小学4年生の時の親の仕事に対する調査でした。クラスメイト全員の前で、親が公務員の人,会社員の人と先生が言い、該当する職業で手を挙げて行くというものです。私は事前に両親と相談した通り、自営業という所で手を挙げましたが、先生にどんな仕事かと言われた私は「知らない」と言う他ありませんでした。その年令で自営業であればなおさら、自分の親が何をしているのか知らない者はいないでしょう、クラス中の人に笑われ、それがひどく恥ずかしかったのを覚えています。そんな風でしたから、自分の親はどこそこに勤めていると誇らしげに語る友人をうらやむ様な子供でした。

 中学生の時,父が逮捕され母は女手一つで姉と私を育てることになりました。しかしお金使いが荒いにもかかわらず真面目に働きもしない父でしたから、むしろその頃の方が生活が安定していました。ある日、母が男の人を連れてきました。父とは違いきちんと仕事をする人でしたが、気難しい人で母も姉もその人の顔色をうかがっている様な生活でした。その人をお父さんと呼ぶのには違和感がありました。不自然な家庭であったと思います。

 ところが高校生になって父が刑務所から出所する直前、母はその男の人と家を出ていってしまいました。私と姉は全く頼れない様な父を頼りに生きて行く他道がなくなりました。しかし、父も少しは父としての自覚ができてきたのかコンクリート会社へ勤め始めました。無論嬉しかったですが、長続きせず結局生活は追い詰められてゆきました。学費は滞納し電気もガスも止められるそんな時もありました。いずれ姉も母のいる松本へ、その頃の私は全くの孤独でした。ある日こんなことを考えました。神はいるのか?いるなら何故僕をこの様な環境に置いたのか?もし神というものがいるなら神は僕に償いをしなければならない、また少々の悪事を働いたとしても大目にみなければならない。何故なら僕をこの様な家庭に産み落としたのだから。そのような考えの中、私は人の物を盗っても、人を傷つけても何とも思わない人間になっていきました。いや、むしろ自分が損なわれてしまった様に他の人々も損なわれるべきだと考えていたのです。

 その頃のどうしても忘れられない思い出があります。地元の神社の夏祭りの日のことでした。私は友人とそこへ行ったのですが、打ち上げ花火が上げられそこで私はある一家を見ました。玄関先で家族4人仲良く花火を見上げています、それは幸せそうな光景でした。あなたはどう感じるでしょうか?仲の良さそうな家族だなぁとほのぼのとした温かい気持ちになるのではないでしょうか?しかしその時私が感じたのは強烈な妬みと憤りでありました。何故あの様な幸せそうな家庭があり、自分はそこに生まれなかったのか、私には物心ついてから、ただの一度も父に抱かれた記憶すらありませんでした。家族で笑うという記憶もほとんどありません。私はそこを走り去りました。名も知らぬ家族に怒りを感じる程私の心は病み、歪んでいたのです。そんな事もあり学校へ行く気もなくなって家にこもったり、ぶらぶらしていました。全てが虚しく感じられ、成績もどんどん落ちていきました。頑張ったっていいこと何一つないじゃないか、もう何もかもどうでもいいと思っていました。

 それでも何とか高校を卒業し、松本へ、社会人となり一人暮らしを始めました。生活も安定して多少心の余裕はできましたが、それでも何故僕は生きているのかといった様な漠然とした疑問は払拭できないまま時間が過ぎていきました。上手く言えませんが何かが間違っている様な気がしました。自分がこの世界に存在していること自体が不自然な気がしました。何故僕は生きているのか、いや何故僕は生まれて来たのか?それでも仕事だけは続けていました。何もかも放り出したいという気持ちになった事もありましたが、自分は父とは違うのだ僕は父の様にはならないという意地もありました。叶う限りの気晴らしをしてみました。ゲームをし、映画を見、漫画を読み、お酒,パチンコ…しかしそれらは一時のもので本当に自分を満たしてくれるものではありませんでした。また科学や哲学,人生論などの本に生きてる意味の答えがあるのではないかと読みあさりましたがその中に答えを見つけることはありませんでした。ある日私は結論を出しました。人は死ぬために生きているのだ、生きるとは徐々に死んで行くことだ、だとすれば人生に何も意味などないではないか?

 しかし、ある日人生の転機が訪れました。妻との出会いです。いろいろな縁があって彼女とおつきあいすることになりましたが、彼女はクリスチャンでした。私は信じるものは人それぞれだからと特に否定はしませんでした。ただ日曜日のデートは教会でした。私としては彼女と一緒に居れれば教会だろうが神社だろうがかまわなかったし、お金のかからないデートで楽だなぁ、くらいにしか思っていませんでした。それでも2年程通ったでしょうか?いつしか私は教会へ行くのが楽しくなって来て、その間にメッセージも少しずつ理解できるようになり、彼女が、また教会の人々が信じるイエス・キリストについて興味を持ち始めました。いくつか信仰書を読み、聖書も何とか通読しました。そこには私の考えとは全く逆のことが書いてありました。すなわち償いをするのは神ではなく、罪人である自分の方であると、そして自分ではとても支払うことのできない罪の代価を私の代わりにイエス・キリストという方が為したのだと。それを受け入れ、これまでの生き方を悔い改め、イエス・キリストを信じるか?聖書が問いかけてきたのでした。(2コリ5:18−21)私は自分の境遇を言い訳にそれまでの罪を弁解してきたのでした。神の敵として生き、神を恨んでいたことすら告白せざるをえません。(ローマ5:6−11)しかしここに私とは比べものにはならない程の過酷な試練に堪え、なおひとつも罪を犯さなかった方がいるのです。キリストは私の罪のために死んだ、そして三日目に甦った。疑い深いトマスの様な人間である私はにわかに信じられない思いでもありました。しかし未だキリストの死と復活が事実でないと論理的に整合性をもって証明した人は一人もいないのです。私は二つの選択を迫られました。すなわち信じるか、信じないか?様々な証拠を並び立てるなら復活は動かしようのない事実、聖書によって裏づけられたイエス・キリストを信じても何も失うものはありません、それどころか永遠の命を与えられます。しかし信じなければあの世で永久に後悔することになるかもしれないのです。聖書によるとどちらかしかありません。

 キリストの贖いと復活、聖書の真実性、頭では理解できても心がついてゆきませんでした。私は生まれて初めてこんな祈りを神に捧げました「神様どうかあなたを信じる信仰をください」神は私の祈りに答えられました、神は信じたいと願う小さな思いすら捉えられます。そうして半年間の学びを経て2004年5月バプテスマを授かりました。救われて変わったことは自分中心から神中心の生活になったことです。人の目は欺くことができます、しかし神の目はごまかすことはできません。たとえ表向き良いと見られる行為ですら神はその本心を見抜いておられます。(ヘブル4:13)人の目ではなく神の目を意識する様になりました。神に喜ばれることをしたい、イエス・キリストをもっと知りたいというのが私の思いであります。時に寄り道したり、脇にそれてしまうこともありますがその歩みは今でも続いています。

 また神は10年ぶりに父と会う機会と時と勇気を与えて下さいました。父方の親戚づてに父が末期ガンで入院していると聞きました。正直これまでの事情から父に会いたくないという気持ちもあったのですが、聖書にはこうあります。あなたの父と母を敬え(出エジプト20:12)そこに条件はありません立派な親だから敬えという訳ではないのです。たといどのような親であれ、そうしなさいという事、生みの親を敬えない者が天の父を敬えるでしょうか?父は愛知の病院にいました。片道4、5時間かかるので多くは見舞えませんでしたが、それでも4,5回見舞う機会がありました。いや、神がそうなさったというべきでしょう。私がキリスト者でなければ、そのまま無視するという選択もありえたのではないかと思います。

 結局父は福音を受け入れることなく死んでゆきました。どうやら父は日本の多くの男性がそうであるように、宗教=弱いというイメージがあった様です。しかし私の確信しているところによれば、全ての人は神を必要としないでいられる程強くはないのです。むしろ神とともにあるからこそ強くあることができます。(2コリ12:9−10)私もまた自分の痛みを、弱さをキリストにあって人に伝えられる事、実に感謝なことです。人は誰でも弱さをもっています。その弱さをへりくだり,神にあずけ委ねることのできるキリスト者とはなんと幸いなことでしょう。(マタ5:3、4、11:28−30)

 今振り返ってみて思うのです。私のあのつらい時期にあっても、確かに神は私を愛し、共に苦しみ、誤った道を歩んだ時には心を痛められたということ。そのような経緯がなければ、恐らく自分の罪に気ずくこともなく、頑なに神を受け入れることもなかったでしょう。そもそも松本へ来て、妻と会いキリストを知ることもなかったでしょう。妻もまた私とは異なる状況ではありますが、やはり父親との関係において大きな傷をもっていました。そんな彼女を私はよく理解できるし、だからこそ二人でキリストの愛の中より良い家庭を築き上げたいと願っているのです。今まで私を守って下さった方はこれから何があっても守ってくださることを信じています。

  「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」 ローマ 8:28


Saturday, January 14, 2012

豊かな命教会


元日、私は、松本豊かな命キリスト教会でメッセージしました。父と母がこの教会を始め、現在、ジャン兄が奉仕しています。
メッセージの一部は、この箇所でした。しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている、のです。』 聖書・1 ペテロ2:9−10

Friday, January 13, 2012

鈴木宗男が刑務所で読んだ本


その本は、三浦綾子氏の『塩狩峠』です。前衆議院議員鈴木宗男氏が栃木県の喜連川社会復帰促進センターで収監されいる間『塩狩峠』を読み、深く感動したそうです。
1月5日・12日、週刊文春の日新年特大号の特集記事「僕が刑務所で読んだ本・人生を変えた一冊」より

私は、その映画を何回も見て感動し、また、その英語と日本語の本を何回か読んでいます。実話に元ずいている小説で、人間の本当の罪の姿や、イエス・キリストとその十字架の真の救いについて書いています。鈴木宗男氏は、この尊いメッセージにうたれたのでしょうか?あなたも読んでみませんか?

「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」聖書・ルカ19:10

Thursday, January 12, 2012

縦糸・横糸


「私たち人間は一人では生きることができません。人と人が結び合い生きるのが私たちです。ところが残念なことに、私たちは傷をもっています。結び合う手と手が離ればなれになる痛みです。
なぜでしょうか。それは私たちのいのちの造り主なる神から離れているからです。神と結び合う糸が縦糸、人と結び合う糸が横系。それが組み合わさって美しい織物を織るのが、私たちのいのちです。どちらも大切です。ところが、神との糸が切れて、横糸だけ結ぼうとして、結べないのが私たちなのです。
切れた横糸結ぼうと神が送って下さった救いがイエス・キリストの十字架です。いのちを捨てるほどに人を愛してくださった。その愛を知ること、信じることが私たちの幸せの鍵です。
喜びを織り出し、実を結ぶ歩みをともにする場所、傷ついた横糸を結び直す場所が教会です。あなたもご一緒に求めてみませんか。」
『あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。』聖書・ヨハネ13:34

甲府キリスト福音教会・教会案内より

年末年始、信州に行った時、Jon兄と松村牧師を甲府であいました。

Wednesday, January 11, 2012

日本アルプス


クリスマスの後(12月27日〜1月4日)、ジャンカー家は、私の古里の信州に行きました。兄や弟ファミリーと貴い時間を持ちながらも、仕事関係の事や豊かな命教会で奉仕しました。忙しかったが、良い時でした。上の写真は、安曇野ファミリーチャペルの駐車場から撮った日本アルプスと田園風景です。Beautiful! 父母がこの教会を始め、兄、小岩井牧師などが続けています。

Monday, January 9, 2012

星野富弘


〜感動・生きる喜び・そして明日への希望〜

花の詩画展 in 丸亀

神様がたった一度だけ
この腕を動かして下さるとしたら
母の肩をたたかせてもらおう
風に揺れるぺんぺん草の
実を見ていたら
そんな日が本当に
来るような気がした

(私たちの体は)蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。」聖書・1コリント15:43

2012年1.29(日)まで

ジャンカー家はすでに券を買って、すぐ行きます!