パトリシア・ジャンカー <写真:友だちと話す母。右がわ。>
(私の母、長野県松本市で50年近く、父と、教会の開拓をした。ラジオ番組「豊かないのちアワー」で話し、聖書書店を経営した。松商短大などで英語を教えた。また、多くのPTAなどで講演した。)
下は平成2年1月信濃教育界発行の「山びこ」57号(伝統の子育ての良さ)掲載されたものです。
外から日本を見ています。
日本人の心を知りたいと思って、「修身」の教科書を読ませていただきました。胸がいっぱいになって、涙を流して読むところがありました。同時に、どうしてあんな事実を曲げて書いているのかと、腹が立ってたまらないところもありました。
その中の一つ、とても大事なものを見つけました。“人を尊敬する”ということです。もちろん、その文書は書いた人の心を反映しているでしょうが、それでもやはり、そのことがその時代の人々に受け入れられる教えだったからだと思います。
アメリカの多くの先生がたが、日本の教室をうらやましく思う一つは、生徒が先生を尊敬するということです。ときにはうわべだけのこともあるでしょうが、わたしは三十五年間日本にいて、生徒が先生を尊敬する場面をよく見かけてきました。上杉鷹山が先生を迎えに行かれた「修身」にあるお話を思い出します。
上杉鷹山は細井平州を師として学んでいました。ある年、平洲を自分の国へ招きました。鷲山は、城から一里あまりの所まで自ら出向き迎えました。平洲が着くと大声で「先生ご安泰」と声をかけ丁寧に敬礼しました。それから、近所の寺にいって休みました。三町ばかりの急な坂を鷲山は一歩も平洲より先でることなく、さらに、平洲がつまづくことを気づかって、近くに並んで進みました。本堂に着くと、平洲を座に導き、ねんごろにもてなしました。
尊敬の心がなければ物を覚えることはできないとわたしは思います。相手を見下げているようでは決して人から学べないと考えます。
わたしの家では、こどもに“馬鹿”ということばを言わないように教えました。親が子どもの心を支配することは出来ないことをよく知っていますが、口から出ることばを指示することはできます。それは、「心に満ちていることを口から出す」(聖書・マタイ12・34)のだからです。わたしの家のものは外人です。この国とっては客人です。まして、「動物だ」という意味の”馬鹿“ということばを言ってはならないと思います。わたしは教室でも同じことを教えます。隣の子を”馬鹿“と言うようであったらどうしてその人から教えを受けることができるでしょうか。
東洋では、年を召しておられる人は尊敬されると世界の人は思っています。聖書も、「あなたは白髪の老人の前では起立し」(レビ記19:32)と教えています。また、「あなたを生んだ父の言うことを聞け。あなたの年老いた母をさげすんではならない」(しん言23:22)と、親を尊敬すべきことも教えています。
親を尊敬する子どもが自然にすることではありません。教えてあげなければならないことだとわたしは思います。
わたしの家で“馬鹿”ということばを禁じたのは人を尊敬するということを教えるための「手段」だったのです。子どもたちが主人とわたしを尊敬する一つの方法でもありました。「子どもたちよ、主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。あなたの父と母を敬え。これは第一の戒めであり約束を伴ったものです。すなわち、そうしたらあなたは幸せになり地上で長生きするという約束です」(エペソ6・1、2)とも教えています。
多くの失敗をしている親ですが、なによりも自分の子どもたちが幸せになることを願っています。ですから、わたしは従うこと、敬うことを教えるのです。
年寄りの方や両親を敬おうことができたら、きっと先生も隣の席にすわる友だちももうやまうことができるでしょう。
尊敬されるようなれためには、わたしはとうしたらよいでしょう。欠点だらけのわたしですが、口をとおして、行動をとおして、子どもをとても大事に思っていることを表すことでないかと思います。その子が神様に似せて作られていることを知ってその子を尊敬すべきだと思います。
あるとき、子どもが父親と対立することがありました。わたしも夫は違う意見をもっていました。そのときでも、父親に従うべきだと教えました。わたしは母親として、子どもが父親を尊敬することを教えたいと考えたのです。夫には責任を負っていただくからです。父親が多くの留守をしていても、わたしたちは父親を立てるべきだと思います。小学校の先生がある日わたしを呼んで、「お宅の娘さんはごめんなさいということばをなかなか言わないですよ」とおっしゃいました。わたしはしかるべきかどうか迷いました。考えているうちに、娘をしかるのではなくて母親のわたしが、努めて「ごめんなさい」と言うことだと思い、実行しました。わずか数週間ののちに、先生が「娘さん、ごめんなさいが言えるようになりましたよ」とおっしゃいました。
子どもが人を尊敬しないのは、私たち大人どうしに尊敬し合う態度がないからではないでしょうか。親の二人がお互いに尊敬し合うことを通して、子どもに“尊敬する”ことを教えることができると思います。わたしは結婚してから、夫とだいぶ違った性格を持っていることがわかりました。対立することもありました。ある日、意見が合わないために、怒ってしまったことがありました。わたしは、夫の欠点を書き出してみました。おもしろいことには、夫の至らない点はわたしのストロングポイントでした。逆にわたしの弱い点が夫の強い点でした。夫は、わたしにとってやはり必要な人だったのです。そして、わたしも夫に役立っていると思いました。これが“尊敬”の元かもしれません。
子どもの心を変えるには、親が変わらなければならないと思います。その子のよいところを見つけ出し、認め、褒めるのです。もうすでに、曲がった心を持った子もあるでしょうが、それでも何か良いところを見つけるのです。ときには自分の力の及ばない子どももいるでしょう。わたしはその子のために祈り、瞑想します。そうすれば、今まで思いつかなかったアイデアが浮かぶこともあります。
伝統の子育てを見返す根本の一つは“尊敬する”を問い直すことではないでしょうか。