Friday, April 29, 2011

イースター<復活祭>のお祝い


4月24日、私たちの高瀬キリスト教会は良いイースター礼拝を持てました。

復活のお話を読んだ後、加藤先生(工学博士)が十字架についての簡単なメッセージをして下さいました。

『卵探し』のゲームをしました。

ほとんど男の子でしたが、子どもたちは、ギュニュウーパックからブーメランを作りました。

Wednesday, April 27, 2011

希望


色んな世界の新聞社によると、東北の地域の自殺についての情報が多くなっているそうです。3/11の地震、津波また原発の『陰』によって失望感が被災者の間にあるのです。ロサンゼルス・タイムズ(L.A. Times)英語の記事:Japan fears post-quake suicides (日本は地震後の自殺を恐れている)

私も、大きく失望した時がありました。7年ほど前、アメリカに帰って、仕事は見つからなかったり、人間関係が変になったりしました。東北の方のような試練ではないですが。その時、単純に創世記1:1が心にありました。「はじめに神が天と地を創造した。」自分に限度があるのを感じたが、創り主がいる、と実感しました。また”Christ our hope ”(キリスト私たちの希望)という看板が外にあった教会にも行きはじめた。

私たち人間は、創り主を無視ますが、創り主は私たちを無視しませんでした。逆に、私たちを訪ねて下さいました。そうです。イエス・キリストのことです。また、聖書はこう書いてあるし、私はこう確信しています。『私は、みにくい人です。罪がある者です。しかし、それでも、天地を創られた神は私を極めて愛しているのです。なぜなら、イエスは、十字架上でその愛を勝ち取って下さったのです。私は、神の愛の対象です。今、私は、神を”パパ”と呼びかけることができるのです。』

天地の神が私を真実に愛していれば希望は豊かにあるのです。自分のためだけではなく、他の人のためにも。ぜひ、聖書を読んで、キリストにある希望を見いだして下さい。

「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、。。。神の愛が私たちの心に注がれているからです。」聖書・ローマ5:5

写:宮城県女川町で日本と東北のために祈るキリスト者。

Tuesday, April 26, 2011

プライド(傲慢)ほど制服しがたいものはない


「自然感情の中で、おそらくプライド(傲慢)ほど制服しがたいものはない。プライドを嫌悪せよ。プライドと戦え。プライドの息の根を止めろ。できるだけ抑制せよ。プライドはそれでも生きていて、隙あらばのぞき込み、姿を現す。。。 たとえ私が完全にプライドを克服したと確信できたところで、今度は自分の謙虚さを誇っているにちがいないのだ。」ベンジャミン・フランクリン

神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」聖書・1ペテロ5:5、箴言3:34


Sunday, April 24, 2011

東北へ 6


4月15日、四国に帰る途中、私たちは、仙台にあるサマリターンズ・パースと日本国際飢餓対策機構の支援物資の倉庫を訪ねました。


3月11日、9.0の地震が東北を直撃しました。しかし、ほとんどの死者は津波によるものでした。福島原発がその”悲劇”にさらなる不安を与えました。「三重の苦」ですね。これに立ち向かって、人々は、助けの手を差し伸べて立ち上がりました。

確かに、被災者は、祈り、食べ物、服、住まいなど必要です。しかし、これ以上に、被災者は『人』そのものを必要としています。私たちのteamと熊ちゃん(熊田牧師)は、荻浜小学校の皆さんにあったかい焼き鳥丼を用意しました。しかし、焼き鳥以上でした。誰かが私を大事に思う、誰かが遠い四国から来てくれた、外人まで来てくれた、その人格的な面がkeyでした。

私たちが愛して仕えている神は人格的な神です。イエス・キリストです。『神が人となられた』事実です。ここに大事な原則があるのです。私たちは、イエス・キリストを見て人格的な愛が分かり、それを見本にできます。キリストは、私たちの間にすみ、共に食し、人を癒し、触れました。私たちも、被災者に寄り添って、話を聞いて、仕えるのです。

しかし、私たちがどんなに”がんばって”も、私たち人間には、限度がるのです。出来ることは限られています。必要は、多すぎます。ですから、新たに聖書の福音(良き訪れ)信じるのです。キリストは、十字架上で苦しまれ死なれたのは、私たちが、私たちの人生に人格的に触れて下さるご自身神を知る、ためなのです。この方が触れて下さると、全てが変るのです。

今日、4月24日は、復活祭です。世界がお祝いします。イエス・キリストは、歴史上事実、三日目に復活したのです。イエス・キリストは、こう語っているように思います。「あなたがたは、この大震災にあって、多くの死を見ました。しかし、私は、死に打ち勝ちました。私を通して希望があるのです。」限度のある人間に神のみが出来ることを期待すると、失望します。しかし、天地を創られた神を期待すると、けっして失望に終わらないのです。希望が豊かにあるのです。

多くの方が被災者に仕えて来ました。この親切は、悲惨な状態にある人々を訪ねる人格的な神ーイエス・キリストーを物語っています。主のamazing grace(驚くばかりの恵み)を讃えます。

Saturday, April 23, 2011

東北へ 5


四日目、石巻の年配の夫婦の仕出し屋の清掃に協力しました。2階は、地震の影響を受けたが、津波の影響はなかってです。しかし、一回は、大変でした。

津波は、港の方から来ました。

この建物の一階を清掃しました。バスを破壊する津波の影響を見て下さい!

瀧波牧師とマーク(宣教師)がヘアをかたずけます。ヘドロでいっぱいでした。

仙台にある福音自由教会が手伝ってくださいました。ここでは巨大冷蔵庫を処分しています。

主の祝福がこの夫婦と仕出し屋にあるように心を一つにして祈りました。

Friday, April 22, 2011

東北へ 4


三日目に、私たちは、荻浜小学校の避難所に行きました。

荻浜の多くの方は小学校に逃げました。15メーター以上の津波がこの静かな浜を通ったのです。浜には家がないように見えますが、前は家でいっぱいでした。また、遺体ががれきにまだ埋まっているからかたずけられないそうです。

今日も焼き鳥を用意しました。

私たちが小学校で焼き鳥を用意している間、避難所であった近くのお寺に行って、キリストの名によって、焼き鳥弁当、豚汁、コーヒー、クッキーを差し上げましました。

私は熊田牧師にこう聞きました。焼き鳥をはじめた頃、このようなことをすると思ったか?を聞きました。なかった、と答えました。しかし、避難所の男性は、また来て、と言いました。はじめてまた来て、と言ったそうです。キリストの恵みは不思議な方法で人に運ばれます。シンプルな焼き鳥を通して。。。。 ちなみに、熊ちゃん、奥さんと7人の子どもも一週間避難所にいたそうです。

Thursday, April 21, 2011

東北へ 3


4月12日、石巻の炊き出しの後、小野川原発のある小野川に行きました。津波によって破壊されていました。

自衛隊によって町が少しかたずけられた状態の女川です。

町の中央で、この地域と日本全体のために祈りました。

山からの角度です。津波は15メーターほどになりました。電車が丘にあるお墓の真ん中にあることに注意して下さい。信じられないような力です。

Wednesday, April 20, 2011

東北へ 2


東北の奉仕の二日目は、ちょうど津波の一ヶ月後でした。忘れないで下さい。1万人以上の尊い命が津波によって取り去られました。

津波で破壊された石巻市の部分に来た時、涙がでて、「あー、主よ」と泣くしか出来ませんでした。

炊き出しをした向かいは車の田んぼでした。

自衛隊が物資を配っていました。150人以上のかたが並んでいたでしょうか。

焼き鳥をつくっている方は、焼き鳥によって生計を建てている牧師です。彼の愛称は、熊ちゃんです。焼き鳥弁当、スープ、クッキーとコヒーを配りました。ほとんどの方は、日野原先生や星野富弘の聖書の話しのパンフレットも持って行きました。

この四人家族の皆が津波から救われました。二才のボーヤはソウタ君です。彼が私につぶやいていたのは「ない」、多分津波の後にはおもちゃなど何も残っていないことを言っていたのでしょう。

Tuesday, April 19, 2011

東北へ


4月10日、3/11の被災者に仕えるために6人が高松シオン教会に集合しました。後で、プラス3人が加わりました。

日曜日の晩、7:30ごろ教会をたちました。三時間かけて神戸に行き、そこの教会で泊まりました。

そして、15時間以上かけて宮城県に行きました。上の写真、被災地に入る前に、ガソリンを満タンにしています。この時点で、私たちは、原発のある福島県にいました。

また、そこで、被災者に仕えに来た他のクリスチャンにあいました。

やはり、物資や、炊き出しの準備だけではなく、聖書を通して心の準備も必要でした。

宮城教会が私たちの本拠地でした。ここのクリスチャンも被災者でしたが、教会と心を広く開けて下さいました。感謝です。

続く

Monday, April 18, 2011

Shaneの誕生日


4月9日、ジャンカー・ファミリーは、ファミレス・ジョイフルでShaneの誕生日をお祝いしました。Shaneはカレーとスープをenjoyしました。

Saturday, April 9, 2011

分不相応な贈り物


インド駐在中にハンセン病にかかったピーター・グリーブが、病と共にあるその人生を振り返っている。視力を半分失い、一部麻痺した身体でイギリスへ戻り、英国国教会系のシスターのグループが運営する施設で暮らす。働くことができず、社会から見捨てられ、やりきれない思いでいっぱいだった。自殺も考えた。微密な脱走計画も立てたが、いつも踏み切れない。他に行き場がなかったのだ。

ある朝早く起きて、何とはなしに庭をぶらついていた。ぶつぶつという声が聞こえるので、それを追ってチャペルまで行くと、シスターたちが壁に書かれた名前の患者のために祈りをささげている。その中に自分の名前もあるのが見えた。ともかくその経験が彼の人生行路を変えたのである。彼は自分が望まれた存在であることを感じた。恵みを感じた。

私たちは、たくさんの問題をかかえているし、「恵みでないもの」に何としても置き換えようとする傾向があるにもかかわらず,一人が生き続けるのは、「外部」からも予想もしない瞬間にやってくる。分不相応な(身分に相応しくない)贈り物に神密的な美しさを私たちが感じるからである。

罪や恥に彩られた人生が破滅へと通じているのを信じまいとして、私たちは望み得ないときに希望を抱き、別のルールによって営まれている別の場所があるのではないかと、希望を持ち続ける。私たちは愛に飢えて成長し。言葉で言いえないほど心の底から、「創造者」に愛されることを望んでいる。

フィリプ・ヤンシー

「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」聖書・ローマ5:8


Thursday, April 7, 2011

13年に成りました。

主の恵みによって、奈帆と私の13年目の結婚記念日をお祝いしました。13本のバラは13年を意味しています。記念日は、4月4日でした。通常、奈帆が料理するから、今回私がしました。「奈帆、とても特別な13年をありがとう!」

Wednesday, April 6, 2011

「空の空」13


「私は日の下で、もう一つの悪があるのを見た。それは人の上に重くのしかかっている。神が富と財宝と誉れとを与え、彼の望むもので何一つ欠けたもののない人がいる。しかし、神は、この人がそれを楽しむことを許さず、外国人がそれを楽しむようにされる。これはむなしいことで、それは悪い病だ。もし人が百人の子どもを持ち、多くの年月を生き、彼の年が多くなっても、彼が幸いで満たされることなく、墓にも葬られなかったなら、私は言う、死産の子のほうが彼よりはましだと。その子はむなしく生まれて来て、やみの中に去り、その名はやみの中に消される。太陽も見ず、何も知らずに。しかし、この子のほうが彼よりは安らかである。彼が千年の倍も生きても、しあわせな目に会わなければ両者とも同じ所に行くのではないか。人の労苦はみな、自分の口のためである。しかし、その食欲は決して満たされない。知恵ある者は、愚かな者より何がまさっていよう。人々の前での生き方を知っている貧しい人も、何がまさっていよう。目が見るところは、心があこがれることにまさる。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。今あるものは、何であるか、すでにその名がつけられ、また彼がどんな人であるかも知られている。彼は彼よりも力のある者と争うことはできない。多く語れば、それだけむなしさを増す。それは、人にとって何の益になるだろう。だれが知ろうか。影のように過ごすむなしいつかのまの人生で、何が人のために善であるかを。だれが人に告げることができようか。彼の後に、日の下で何が起こるかを。」聖書・伝道者の書 6章


私たちは、いろんなもので、満たされようとします。『富』、『子ども』、『長寿』、『労苦』、『知恵』、『物質』や『言葉』によって満たされようとします。しかし、ソロモン王は、これらの良いものを、「自分の全て」や「神」にすると、「悪」と変って行く、と教えているのです。「人の上に重くのしかかっている」悪と成るのです。神以外のものに真の満足を得ようとすると、自分に害を与える悪であるだけではく、「むなしいことで」、さらに「それは悪い病だ」と書いてあるのです。全ての創り主のみが真の満足を与えることが出来ます。良いものを自分の究極的な満足にすると、そのものの奴隷になるのです。良いものは、神でないからです。

例えば「富」自体は、悪ではなく、良いものです。しかし、それが「全て」にしたり、「神」したりすると、色んな「悪」になるのです。その人にとって、富は、最高のものですから、多くの富を得るために、「働き蜂」に成り、家族を無視します。成功の階段を上るために、仕事の同僚を踏んだりします。利益を得るために、嘘もつきます。富を得るのは、他の人、特に貧しい人、のためなのに、ただただ自分のために蓄えるのです。良いものは、「悪」となって行くのです。

アレキサンダー大王の父、フイリップ二世王は、或る日、家来と相撲をとりました。家来は、手加減もしないで、フィリップ王を投げつけました。立ち上がったフイリップは意外に泣き出しました。家来たちは怪訝(けげん、不思議そう)な顔で言いました。「王よ。何とて泣かるるや。たかが一番の相撲に敗けたとて、泣かるるとは、王らしからず。」と。すると、フイリップは、自分が投げつけられた砂のあとを指さして答えました。「相撲に負けたゆえ、口惜しくて泣いているのではない。これを見よ。私が投げつけられた身体の跡だ。あぁ、たとえ世界を我が掌中にしたとて、結局、死ねばこの五尺の身体を埋める地面だけで終るのだ。それを思うと、人生のあまりの儚(はか)なさに泣いたのだ」

どんなにフイリップ二世王が国々、名誉、富を得ても、空しかったのです。満足はなかったのです。逆に、彼は、その野望で多くの人を苦しませたのです。彼にとってだけではなく、多くの人の「悪」と成ったのです。小畑進師はこう説明しています。「たとえ生命をかけて戦い、戦いつづけて帝国を築いて来たとしても、結局はこんな小さな地面に埋められるだけとは…。空の空、空の空よ、と。これを伝道者は「悪い病」と云いました。。。事実、マケドニヤの英雄フイリップとアレキサンダー父子二代で世界に築きあげたマケドニヤ大帝国は、外国人・ローマ人の天下に呑み込まれてしまい、あとかたもないのです。」「是れ空なり悪き疾なり。」

しかし、開放の道があります。全てのものー富』、『子ども』、『長寿』、『労苦』、『知恵』、『物質』や『言葉』—が神の摂理と恵みによって神から来ると認めると、『幸せ』であり、良いことだと、実感するのです。自分がどんなに働いても、この体や力や機会を下さるのは、本当は恵みの神だ、と分かるのです。ですから、自分は、その良いもの奴隷ではなくなるのです。逆に、恵みの神が、自分の人生の主役に成るのです。神は、私たちをけして酷使しないのです。

「まさしく、神なくしては私たちの人生など海の底の一すくいの泥にも劣る。私どもの人生から神が無くなったら、何の甲斐が残ることか。しかし、神あって、またこの神にあって私みたいな者も、神の子として輝く!生きてもよい!」小畑進師

この恵みの神は、どのようなお方でしょうか?聖書・ピリピ2:6−8「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」

「ご自分を無にして」と言う言葉に注目してほしいです。主イエス・キリストは、私たちが満たされるように、「ご自分を無にした」のです。また、キリストは、私たちが神とその真の愛に満たされるように、十字架上で自分の命を捧げたのです。私たちの行いによって勝ち取るものではなく、唯一の神であるキリストが与える極めた恵みによって頂き受け入れるものです。イエス・キリストを信じる信仰によるものです。ここに真の恵み深い満足があるのです。

良いものであっても、限度のあるものによって究極的な満しを得ようとしないで、天地を創られた人格的な神—主イエス・キリストーに満たされるのです。

私は、若い頃、しばしば、心の不満を感じた時、ビデオをレンタルして、それを通して、満足を得ようとしました。でも、その物足りなさを感じました。しかし、私は、今、毎朝、聖書を通して、祈りによって「イエス・キリストとその十字架」の麗しさを味わっています。キリストにあって神から満足があるのです。「天のお父様、この恵みを感謝します!」

Monday, April 4, 2011

レオマ・ワールド。。。ビデオ


エープリル・フール・デー、ジャンカー家が、レオマ・ワールドに行きました。日曜日の日に子供会のみんなと行けなかったのは残念でしたが。

ジャシュアは、Fー1ドライバー。

「レインボー・バンデット」に乗るホサーナと兄貴たち。

昔ながらのメリー・ゴー・ラウンドに乗る奈帆とキッズ。シェーンの仕業がカメラでキャッチ。

子どもたちは、とても楽しかったです。私は奈帆と充実した時を持てました。正直言って、東日本大震災のことを覚えていたので、私は、充分に楽しめなかったです。しかし、人生の痛みも楽しみも両方下さる主に感謝しています。

Sunday, April 3, 2011

主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。


聖書・詩篇 103


わがたましいよ。主をほめたたえよ。

私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。


主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

主は、あなたのすべての咎を赦し、

あなたのすべての病をいやし、

あなたのいのちを穴から贖い、

あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、

あなたの一生を良いもので満たされる。

あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。

主はすべてしいたげられている人々のために、正義とさばきを行われる。


主は、ご自身の道をモーセに、そのみわざをイスラエルの子らに知らされた。


主は、あわれみ深く、情け深い。

怒るのにおそく、恵み豊かである。

主は、絶えず争ってはおられない。

いつまでも、怒ってはおられない。

私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、

私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。


天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。

東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。


父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。


主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。

人の日は、草のよう。野の花のように咲く。

風がそこを過ぎると、それは、もはやない。その場所すら、それを、知らない。


しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある。

主の義はその子らの子に及び、主の契約を守る者、

その戒めを心に留めて、行う者に及ぶ。

主は天にその王座を堅く立て、その王国はすべてを統べ治める。


主をほめたたえよ。御使いたちよ。

みことばの声に聞き従い、みことばを行う力ある勇士たちよ。

主をほめたたえよ。主のすべての軍勢よ。みこころを行い、主に仕える者たちよ。

主をほめたたえよ。すべて造られたものたちよ。主の治められるすべての所で。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。



* 聖書・ヨハネ1:16 「私たちはみな、この方<主イエス・キリスト>の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、。。。恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神<主イエス・キリスト>が、神を説き明かされたのである。」神が人となり、私達の間に住みました。主イエス・キリストのことです。このお方が恵みによって奇跡を行い、恵みによって悪霊を追い出し、恵みによって死人を復活させました。全てを超えた恵みは、人の罪を負い、十字架上で人の代わりとなって死なれ、人を救ったことです。永遠の命を恵むために復活したのです。人は、ただ信仰によって受け入れるのです。Amazing Graceと言う歌のように、『私のような汚れた者を救った驚くべきばかりの恵み』です!「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」