Friday, April 29, 2011
Wednesday, April 27, 2011
希望
Tuesday, April 26, 2011
プライド(傲慢)ほど制服しがたいものはない
「自然感情の中で、おそらくプライド(傲慢)ほど制服しがたいものはない。プライドを嫌悪せよ。プライドと戦え。プライドの息の根を止めろ。できるだけ抑制せよ。プライドはそれでも生きていて、隙あらばのぞき込み、姿を現す。。。 たとえ私が完全にプライドを克服したと確信できたところで、今度は自分の謙虚さを誇っているにちがいないのだ。」ベンジャミン・フランクリン
Sunday, April 24, 2011
東北へ 6
Saturday, April 23, 2011
Friday, April 22, 2011
東北へ 4
Thursday, April 21, 2011
東北へ 3
Wednesday, April 20, 2011
東北へ 2
Tuesday, April 19, 2011
東北へ
Monday, April 18, 2011
Saturday, April 9, 2011
分不相応な贈り物
インド駐在中にハンセン病にかかったピーター・グリーブが、病と共にあるその人生を振り返っている。視力を半分失い、一部麻痺した身体でイギリスへ戻り、英国国教会系のシスターのグループが運営する施設で暮らす。働くことができず、社会から見捨てられ、やりきれない思いでいっぱいだった。自殺も考えた。微密な脱走計画も立てたが、いつも踏み切れない。他に行き場がなかったのだ。
ある朝早く起きて、何とはなしに庭をぶらついていた。ぶつぶつという声が聞こえるので、それを追ってチャペルまで行くと、シスターたちが壁に書かれた名前の患者のために祈りをささげている。その中に自分の名前もあるのが見えた。ともかくその経験が彼の人生行路を変えたのである。彼は自分が望まれた存在であることを感じた。恵みを感じた。
私たちは、たくさんの問題をかかえているし、「恵みでないもの」に何としても置き換えようとする傾向があるにもかかわらず,一人が生き続けるのは、「外部」からも予想もしない瞬間にやってくる。分不相応な(身分に相応しくない)贈り物に神密的な美しさを私たちが感じるからである。
罪や恥に彩られた人生が破滅へと通じているのを信じまいとして、私たちは望み得ないときに希望を抱き、別のルールによって営まれている別の場所があるのではないかと、希望を持ち続ける。私たちは愛に飢えて成長し。言葉で言いえないほど心の底から、「創造者」に愛されることを望んでいる。
フィリプ・ヤンシー
「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」聖書・ローマ5:8
Thursday, April 7, 2011
13年に成りました。
Wednesday, April 6, 2011
「空の空」13
「私は日の下で、もう一つの悪があるのを見た。それは人の上に重くのしかかっている。神が富と財宝と誉れとを与え、彼の望むもので何一つ欠けたもののない人がいる。しかし、神は、この人がそれを楽しむことを許さず、外国人がそれを楽しむようにされる。これはむなしいことで、それは悪い病だ。もし人が百人の子どもを持ち、多くの年月を生き、彼の年が多くなっても、彼が幸いで満たされることなく、墓にも葬られなかったなら、私は言う、死産の子のほうが彼よりはましだと。その子はむなしく生まれて来て、やみの中に去り、その名はやみの中に消される。太陽も見ず、何も知らずに。しかし、この子のほうが彼よりは安らかである。彼が千年の倍も生きても、‐しあわせな目に会わなければ‐両者とも同じ所に行くのではないか。人の労苦はみな、自分の口のためである。しかし、その食欲は決して満たされない。知恵ある者は、愚かな者より何がまさっていよう。人々の前での生き方を知っている貧しい人も、何がまさっていよう。目が見るところは、心があこがれることにまさる。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。今あるものは、何であるか、すでにその名がつけられ、また彼がどんな人であるかも知られている。彼は彼よりも力のある者と争うことはできない。多く語れば、それだけむなしさを増す。それは、人にとって何の益になるだろう。だれが知ろうか。影のように過ごすむなしいつかのまの人生で、何が人のために善であるかを。だれが人に告げることができようか。彼の後に、日の下で何が起こるかを。」
私たちは、いろんなもので、満たされようとします。『富』、『子ども』、『長寿』、『労苦』、『知恵』、『物質』や『言葉』によって満たされようとします。しかし、ソロモン王は、これらの良いものを、「自分の全て」や「神」にすると、「悪」と変って行く、と教えているのです。「人の上に重くのしかかっている」悪と成るのです。神以外のものに真の満足を得ようとすると、自分に害を与える悪であるだけではく、「むなしいことで」、さらに「それは悪い病だ」と書いてあるのです。全ての創り主のみが真の満足を与えることが出来ます。良いものを自分の究極的な満足にすると、そのものの奴隷になるのです。良いものは、神でないからです。
例えば「富」自体は、悪ではなく、良いものです。しかし、それが「全て」にしたり、「神」したりすると、色んな「悪」になるのです。その人にとって、富は、最高のものですから、多くの富を得るために、「働き蜂」に成り、家族を無視します。成功の階段を上るために、仕事の同僚を踏んだりします。利益を得るために、嘘もつきます。富を得るのは、他の人、特に貧しい人、のためなのに、ただただ自分のために蓄えるのです。良いものは、「悪」となって行くのです。
アレキサンダー大王の父、フイリップ二世王は、或る日、家来と相撲をとりました。家来は、手加減もしないで、フィリップ王を投げつけました。立ち上がったフイリップは意外に泣き出しました。家来たちは怪訝(けげん、不思議そう)な顔で言いました。「王よ。何とて泣かるるや。たかが一番の相撲に敗けたとて、泣かるるとは、王らしからず。」と。すると、フイリップは、自分が投げつけられた砂のあとを指さして答えました。「相撲に負けたゆえ、口惜しくて泣いているのではない。これを見よ。私が投げつけられた身体の跡だ。あぁ、たとえ世界を我が掌中にしたとて、結局、死ねばこの五尺の身体を埋める地面だけで終るのだ。それを思うと、人生のあまりの儚(はか)なさに泣いたのだ」
どんなにフイリップ二世王が国々、名誉、富を得ても、空しかったのです。満足はなかったのです。逆に、彼は、その野望で多くの人を苦しませたのです。彼にとってだけではなく、多くの人の「悪」と成ったのです。小畑進師はこう説明しています。「たとえ生命をかけて戦い、戦いつづけて帝国を築いて来たとしても、結局はこんな小さな地面に埋められるだけとは…。空の空、空の空よ、と。これを伝道者は「悪い病」と云いました。。。事実、マケドニヤの英雄フイリップとアレキサンダー父子二代で世界に築きあげたマケドニヤ大帝国は、外国人・ローマ人の天下に呑み込まれてしまい、あとかたもないのです。」「是れ空なり悪き疾なり。」
しかし、開放の道があります。全てのものー『富』、『子ども』、『長寿』、『労苦』、『知恵』、『物質』や『言葉』—が神の摂理と恵みによって神から来ると認めると、『幸せ』であり、良いことだと、実感するのです。自分がどんなに働いても、この体や力や機会を下さるのは、本当は恵みの神だ、と分かるのです。ですから、自分は、その良いもの奴隷ではなくなるのです。逆に、恵みの神が、自分の人生の主役に成るのです。神は、私たちをけして酷使しないのです。
「まさしく、神なくしては私たちの人生など海の底の一すくいの泥にも劣る。私どもの人生から神が無くなったら、何の甲斐が残ることか。しかし、神あって、またこの神にあって私みたいな者も、神の子として輝く!生きてもよい!」小畑進師
この恵みの神は、どのようなお方でしょうか?聖書・ピリピ2:6−8「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」
「ご自分を無にして」と言う言葉に注目してほしいです。主イエス・キリストは、私たちが満たされるように、「ご自分を無にした」のです。また、キリストは、私たちが神とその真の愛に満たされるように、十字架上で自分の命を捧げたのです。私たちの行いによって勝ち取るものではなく、唯一の神であるキリストが与える極めた恵みによって頂き受け入れるものです。イエス・キリストを信じる信仰によるものです。ここに真の恵み深い満足があるのです。
良いものであっても、限度のあるものによって究極的な満しを得ようとしないで、天地を創られた人格的な神—主イエス・キリストーに満たされるのです。
Monday, April 4, 2011
レオマ・ワールド。。。ビデオ
Sunday, April 3, 2011
主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
聖書・詩篇 103
わがたましいよ。主をほめたたえよ。
私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。
わがたましいよ。主をほめたたえよ。
主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
主は、あなたのすべての咎を赦し、
あなたのすべての病をいやし、
あなたのいのちを穴から贖い、
あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
あなたの一生を良いもので満たされる。
あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。
主はすべてしいたげられている人々のために、正義とさばきを行われる。
主は、ご自身の道をモーセに、そのみわざをイスラエルの子らに知らされた。
主は、あわれみ深く、情け深い。
怒るのにおそく、恵み豊かである。
主は、絶えず争ってはおられない。
いつまでも、怒ってはおられない。
私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、
私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。
天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。
東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。
父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。
主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。
人の日は、草のよう。野の花のように咲く。
風がそこを過ぎると、それは、もはやない。その場所すら、それを、知らない。
しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある。
主の義はその子らの子に及び、主の契約を守る者、
その戒めを心に留めて、行う者に及ぶ。
主は天にその王座を堅く立て、その王国はすべてを統べ治める。
主をほめたたえよ。御使いたちよ。
みことばの声に聞き従い、みことばを行う力ある勇士たちよ。
主をほめたたえよ。主のすべての軍勢よ。みこころを行い、主に仕える者たちよ。
主をほめたたえよ。すべて造られたものたちよ。主の治められるすべての所で。
わがたましいよ。主をほめたたえよ。
* 聖書・ヨハネ1:16 「私たちはみな、この方<主イエス・キリスト>の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、。。。恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神<主イエス・キリスト>が、神を説き明かされたのである。」神が人となり、私達の間に住みました。主イエス・キリストのことです。このお方が恵みによって奇跡を行い、恵みによって悪霊を追い出し、恵みによって死人を復活させました。全てを超えた恵みは、人の罪を負い、十字架上で人の代わりとなって死なれ、人を救ったことです。永遠の命を恵むために復活したのです。人は、ただ信仰によって受け入れるのです。Amazing Graceと言う歌のように、『私のような汚れた者を救った驚くべきばかりの恵み』です!「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」