『 この方(イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。』使徒ペテロ、聖書・使徒の働き 4:12
Friday, April 30, 2010
彼の内に私たちの全ての徳と全ての幸福がある。
Thursday, April 29, 2010
ジャンポール・サルトル
Wednesday, April 28, 2010
四つの福音書....を研究してみなさい。
Tuesday, April 27, 2010
お遍路さん
Monday, April 26, 2010
Saturday, April 24, 2010
Friday, April 23, 2010
Thursday, April 22, 2010
Wednesday, April 21, 2010
フォーク・シンガ-本田路津子
Tuesday, April 20, 2010
聖書を奉ずる人であった。
「私はこの時代に、偉人と呼ばれる95人の人を知っている。うち87人は、聖書を奉ずる人であった。聖書の特色はその特異性にあり、他のあらゆる書物を無限に引き離している。」W.E.グラッドストン
Monday, April 19, 2010
ある女性は、胸に手をおいて、もう一つの手を天に上げ、心を尽くして神に歌っていました。
Saturday, April 17, 2010
青年よ、キリストにあって大志を抱け!
Friday, April 16, 2010
「聖書を読みなさい。」エジソン
Thursday, April 15, 2010
小さないかだに過ぎない
“All of the wisdom of this world is but a tiny raft upon which we must set sail when we leave this world. If only there was a firmer foundation upon which to sail, perhaps some divine word.” Socrates
聖書・ヨハネ 1:1と14『初めに、ことば* があった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。。。。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。』
* 「ことば」はイエス・キリストを意味する。
Wednesday, April 14, 2010
私には出来ない
‘All my life I have been seeking to climb out of the pit of my besetting sins and I cannot do it and I never will unless a hand is let down to draw me up.” Seneca
聖書・ルカ19:10「人の子(イエス・キリスト)は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
Tuesday, April 13, 2010
「イエス・キリストは復活されたのです。」オバマ大統領
4月6日、アメリカ合衆国大統領バラク・オバマ氏は、ホワイトハウスでイースター(復活祭)朝食を主催しました。オバマ大統領は、短くこのように語りました。
「2000年たっても、私たちは今も心にこのように描くことが出来ます。ナザレのイエスは、エルサレムの道を強制的に歩かせられました。ローマ帝国による侮辱、あざけり、乱暴と拷問を体験したのです。泥棒の叫びの間に挟まれた苦しみの十字架刑でした。しかし、たったの三日後、世界は変ったのです。人の子イエスの体は墓に発見されなかったのです。イエス・キリストは復活されたのです。
彼を殺そうとしていた者に対する彼の恵みに驚きます。人類の罪のためにして下さった犠牲を感謝しています。また、私たちは、復活にあるあがない(あがないはイエスの十字架による救いと回復を意味する)の約束をほめたたえます。
また、この約束は、人生の素晴らしい祝福です。なぜなら、私は常に学ばされていることですが、私たちひとりひとりは、不完全であります。私たちひとりひとりは、無意識でまた意識して過ちをおかします。私たちひとりひとりは自分の歩むべき道に到達していません。また、自己中心や傲慢は私たちみんなを苦しませるものです。
この病いを清め、あがないに到達するのは簡単ではありません。しかし、クリスチャンとして、私たちは、イエス・キリストを信じることによって、あがないは必ず与えられることを信じています。また、曲がった品性があがないの可能性によってまっすぐされるのです。魂の不完全をいやして下さるのです。どんなに消え去る世であっても、あがないは、人生に永遠の希望を下さるのです。
福音書のあらゆる話の中で、特にこの季節において、次の話が私に一番語って下さっています。十字架刑にさらされている十字架上のキリストを心に思い巡らします。彼の受難の最後の何秒です。彼は、力を振り絞って、最後の息をする寸前に、この最後の言葉を語りました。
「父よ、私の魂をあなたの御手の中に委ねます」と彼は言いました。父よ、私の霊をあなたの御手に委ねます。この言葉は、私たちの主また救い主によって語られましたが、今日、私たちひとりひとりによってもこの言葉は真実に語ることが出来るのです。全ての神の子供は、この言葉の意味を真実に人生において生かすことが可能なのです。
ですから、この日に、正義をもって行動するように、慈愛を愛するように、主と共に謙虚に歩むように、真実な生涯の追求に自分の霊を委ねましょう。そして、つまづく時、かならずそういう時が来るのですから、献身によって、忍耐によって、また信仰によってー あがないが私たちの永遠の希望と熱心な願いになりますように。。。。」
Saturday, April 10, 2010
Friday, April 9, 2010
日野原重明
日野原重明・99歳。著書「生き方上手」他。現役医師。聖路加病院・名誉院長。聖路加病院は、地下鉄サリン事件時、多くの患者を無制限に受け入れたことで有名。
私は59歳の時、1970年の「日航機・よど号ハイジャック事件」に遭遇したんです。私たち人質が解放され、空港の土を踏んだ時の感覚を、私は生涯忘れないでしょう。それまでは有名な医者になり、いろいろな仕事をやることが目標でしたが、こうして助けられたんだから、これからは自分中心でない、人のためになる生き方をしたいと思いました。心に希望を持って生き、希望の少ない人に少しでも希望の灯をともすことができればと思います。
日野原さんの好きな聖書のことば「いつまでも残るのは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」 聖書・第一コリント人への手紙13:13
Wednesday, April 7, 2010
Monday, April 5, 2010
復活祭!
Sunday, April 4, 2010
「空の空」 9
聖書・伝道者の書 4:1−6「私は再び、日の下で行われるいっさいのしいたげを見た。見よ、しいたげられている者の涙を。彼らには慰める者がいない。しいたげる者が権力をふるう。しかし、彼らには慰める者がいない。私は、まだいのちがあって生きながらえている人よりは、すでに死んだ死人のほうに祝いを申し述べる。また、この両者よりもっと良いのは、今までに存在しなかった者、日の下で行われる悪いわざを見なかった者だ。私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。愚かな者は、手をこまねいて、自分の肉を食べる。片手に安楽を満たすことは、両手に労苦を満たして風を追うのにまさる。」
「人間」という言葉は、「人」(ひと)の「間」(あいだ)ですが、残念ながら「日の下」のこの世では、人間と人間の間に常に緊張があるように思わされます。ソロモン王は、この伝道者の書の4章で、その緊張は、「しいたげられている者」と「しいたげる者」の間に緊張だけではなく弾圧があると言っています。また、「権力」からの圧迫だけではなく、「人間同士のねたみ」と言う緊張があると言っています。
「しいたげられている者」と「しいたげる者」の間に緊張だけではなく弾圧があるのです。徳川時代「士・農・工・商」と言う弾圧的制度が作られました。徳川幕府は、参勤交代によって、格藩の大名にプレッシャーをかけ、それによって大名は特に農民に圧迫をかけました。江戸幕府の時代、日本中の農民は、大名などに反発して、一年に10回ぐらいの一揆(いっき)があったようです。
また、同じ徳川時代に「士・農・工・商」より低い身分の“カースト”を作ったのです。「穢多」(えった)または「非人」と言うグループでした。人々は、人間ではないと「非人」と呼びました。「徳川幕府が、上へ吹きあげてくる不満を下へ向かわせるために作り上げた政略だったのです。何の根拠もない差別虐待でした。」また、キリスタン弾圧もありました。子供を含めて、何万人の日本人キリスタンは、死刑にされました。
弾圧され差別されるものの「涙」が多く、この「日の下」では、「彼らには慰める者がいない」のです。ソロモン王は、このような弾圧にあるなら、「慰める者がいない」のなら、ただ人間の角度から見ると、生きるよりも、死んだほうが良い、と言いました。いや、先ず、生きてこなかったほうが良いでしょう、と言いました。それほど、弾圧や、差別の苦しみが多いのです。悲惨です。実に「空の空」であり、「空しい」のです。
人間の間の緊張は、上から来るだけではないのです。「人間同士のねたみ」と言う緊張があるのです。「私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。」「ねたみ」を心に抱いている人間は、「あらゆる労苦とあらゆる仕事」で、 “人を踏みつぶしてもいいから”の我れ先の「成功」にのめり込まれているのです。ひねくれている資本主義です。また、その前に来る教育からもこの「ねたみ」と我れ先の競争が始まります。
アメリカでは”keeping up with the Jones”と言いました。「ジョーンズ(佐藤のような一般的な名前)に負けないように頑張らなくっちゃ!」ジョンズさんが新しい車を買うから、あの家を建てるから、あのきれいな服を着ているから、あの学校に行くから、私も。また、それによって、緊張感がお互いの間にあるのです。建前は、子供のため、家族のため、会社のため、社会のため、ときれいごとを言いますが、本音は、「ねたむ」自分のためなのです。
「これもまた、むなしく、風を追うようなものだ」とソロモン王は断言しています。「両手に労苦を満たし」無我夢中で休みもせずに仕事するよりも、「片手に安楽を満たすことは。。。まさる。」人を「ねたみ」競って、働きにのめり込まれるよりも、安息や休みもとったはうが知恵だ、と教えています。労苦も、安楽もバランスをとって過ごしたほうがましだ、と書いてあるのです。動労者や隣人と競ったり、緊張して生きるのは「空しい」のです。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり。されば、天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生れながら貴賤上下(きせんじょうか)の差別なく、万物の霊たる身と心との働を以て天地の間にあるよろづの物を資り(とり)、以て衣食住の用を達し、自由自在互に人の妨(さまたげ)をなさずして各々安楽に此世を渡らしめ給ふの趣意なり。」 福沢諭吉
福沢諭吉は、この考えを自分の母チエから学び取ったと言われています。しかし、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」を読むと、これは聖書を引用していたと言われています。彼は、米国や、ヨーロッパに渡り、三回も幕府遣外使節の通訳をつとめ、欧米のキリスト教文化に深く触れていました。アメリカの憲法の“All men are created equal”(全ての人間は平等に造られた)の革命的な言葉を読んだに違いないです。日本と違って、外国では誰でも大統領になれることを見て聞いて、目を開かれていました。
しかし、「人間同士のねたみ」や「しいたげ」は確かにあるのです。なぜでしょうか?神(創り主)が人間を造った時、人間は、神を愛し、隣人を愛していたのです。しかし、人間は、神や人間を愛すよりも、自分を愛し、物を愛すようになりました。そこから、人間の間の緊張、ねたみ、しいたげ、憎み、争い、または、戦争までが来たのです。
神は、この人間の罪をどうされたのでしょうか?解決は、キリストの十字架にあるのです。部落解放同盟・〈水平社〉運動の旗にある印があるのです。赤地に金の茨の冠です。赤はキリストの血、茨の冠は、キリストの十字架をあらわしています。部落解放にクリスチャンたちが立ち上がったからだそうです。
イエス・キリストも「しいたげ」と「ねたみ」の苦しみを深く体験しました。私たちを「しいたげ」と「ねたみ」から解放して下さるのは、「イエス・キリストとその十字架」のこの上もない愛です。十字架上でキリストは、人々のあらゆる罪(しいたげ、ねたみ、差別、弾圧も)をその身に負い、その罪の罰を代わりとなって受けたのです。唯一の神であるキリストは、その罪を赦しました。
聖書・マルコ10:45 「人の子<イエス・キリスト>が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、<十字架上で>自分のいのちを与えるために来たのです。」
神は、罪を悔い改めて、十字架上で死に、復活された主イエス・キリストを信じ受け入れる者に、「しいたげ」と「ねたみ」から解放する神の愛、恵と平和を下さるのです。キリストに留まる者には、上から圧迫されても、人がねたみを持って競っても、その人を赦し、愛し、その人のために祈る神の力を下さるのです。人の間の緊張に生きるのではなく、キリストの愛に生き、その愛を人に示すのです。
どんなにしいたげられ、ねたまれても、「空しさ」で終わらないのです。主イエス・キリストの恵みによって、真の“人間”の姿、『人の間』の姿、人間のはじめのエデンの園の姿、に回復し始めるのです。自分よりも、物よりも、神を愛し、隣人を愛しはじめるのです。
Friday, April 2, 2010
森永太一郎
Thursday, April 1, 2010
インドのガンジー
その聖書箇所は、マタイによる福音書のイエス・キリストの言葉であり、ガンジーの平和主義はここ来たと思われている。
マタイ5:38ー48『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。
『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。