Wednesday, September 30, 2009
「イスラエルのために祈れ」
Tuesday, September 29, 2009
渇いている者に水を注ぐ
Wednesday, September 23, 2009
「空の空」 (6)
聖書・伝道者の書2:12−26「 私は振り返って、知恵と、狂気と、愚かさとを見た。いったい、王の跡を継ぐ者も、すでになされた事をするのにすぎないではないか。私は見た。光がやみにまさっているように、知恵は愚かさにまさっていることを。知恵ある者は、その頭に目があるが、愚かな者はやみの中を歩く。
事実、知恵ある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはない。日がたつと、いっさいは忘れられてしまう。知恵ある者も愚かな者とともに死んでいなくなる。
私は生きていることを憎んだ。日の下で行われるわざは、私にとってはわざわいだ。すべてはむなしく、風を追うようなものだから。私は、日の下で骨折ったいっさいの労苦を憎んだ。後継者のために残さなければならないからである。後継者が知恵ある者か愚か者か、だれにわかろう。しかも、私が日の下で骨折り、知恵を使ってしたすべての労苦を、その者が支配するようになるのだ。これもまた、むなしい。
私は日の下で骨折ったいっさいの労苦を思い返して絶望した。どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分の分け前を譲らなければならない。これもまた、むなしく、非常に悪いことだ。
実に、日の下で骨折ったいっさいの労苦と思い煩いは、人に何になろう。その一生は悲しみであり、その仕事には悩みがあり、その心は夜も休まらない。これもまた、むなしい。
人には、食べたり飲んだりし、自分の労苦に満足を見いだすよりほかに、何も良いことがない。これもまた、神の御手によることがわかった。実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができようか。 なぜなら、神は、みこころにかなう人には、知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神のみこころにかなう者に渡すために、集め、たくわえる仕事を与えられる。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。」
伝道者の書1:2にポイントがあります。「空の空。すべては空。」「知恵」と「労苦」も「空」であるのです。2:17にもこうあります。「すべてはむなしく、風を追うようなものだから。」神様(創り主)抜きでは、何においても、人生は、空しいのです。しかし、なぜソロモンは、聖書は、そのようなことを断言するのでしょうか?
ソロモン王は、ものごとの結果や結末を学ぶように教えています。「知恵」と「労苦」の結末を見ると、その空しさが分かるのです。今の目の前のものに捕われるよりも、長い目で全てを見なさい、と語っているのです。
英語では”eternal perspective"です。’Eternal’は、永遠、’perspective’は、角度です。永遠、すなわち神と聖書の角度からものごとを見ることです。「結局、限度のある知恵をもって生きたとしても、永遠のことを考えないなら、何になるか、とソロモンと聖書はいっているのです。」
先ず、「光がやみにまさっているように、知恵は愚かさにまさっている」とソロモン王は認めているのです。「知恵」には優れたものがあるのです。しかし、ソロモンは、先を見るように教えています。「みな(賢者も馬鹿者も)、同じ結末に行き着くことを私は知った。」その究極的な結末は何でしょうか?「死」です。
「生まれては死ぬるなりけり押しなべて、釈迦も孔子も猫も杓子(しゃくし)も」一休。ある牧師はこう書きました。「知恵第一の菅原道真だって、諸葛孔明だって、竹中半兵衛だって、みなそこらへんの碌(ろく)でなし野郎と同じ。死んで粗大ゴミになるばかり。」人間の「知恵」は、それほど一時的なものですから、聖書はそれに夢中になるのは空しいと教えているのです。
また、「事実、知恵ある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはない。」なかには、優れた賢者が出て来て、代々皆その人を覚えて行きます。ソロモン王は、その一人です。しかし、ほとんどの賢者は、忘れられてしまうのです。そう言う結末です。ならば、そんなに人間の「知恵」に夢中になる必要はないのです。
「知恵」だけではなく、「労苦」もそうです。結末を見ると空しいです。その一つの理由は「後継者のために残さなければならないからである」とあります。元の持ち主が賢くよく働いても、後の持ち主になる継続者は、知恵のあるものか分からないのです。彼は、苦労して働かなかったので、その遺産のありがたみも分からないのです。
良く聞くことですが、多くの遺産は子孫をだめにする話です。諺にこうあります。「児孫(じそん)の為に美田(びでん)を買わず」西郷隆盛。賢い金持ちは、良く自分の子供によりも、慈善団体に献金するようです。多くのお金を手に入れて自分の人生をだめにした人の話を聞くと悲惨です。
でもそれよりもっとみじかな結果があります。「知恵」や「労苦」に支配されると、「その心は夜も休まらない」のです。夜はそのことに支配され眠れないのです。多分多くの私達は、それを体験したことがあります。「知恵」や「労苦」は、本当に眠れないほど大事なのでしょうか?
「骨折り損のくたびれ儲け。」誰でもこれを体験したことがあるでしょう。結果を見ると、働きすぎて、眠れないだけではなく、疲れはててしまう、妻は知らない人になってしまう、子供はよってこない、自分の殻に閉じこもってしまう、ある人は、過労死に成るのです。仕事一筋の生涯は、悲しい結末にたどり着きます。
ならば”いかに生きるべき”でしょうか?「知恵」や「労苦」にのめり込まないことです。勉強や仕事ばかりに夢中にならないで、普通のことにも「食べたり飲んだり」することにも楽しみを持つことです。花を見たり、人とゆっくり話したり、赤ちゃんを抱いたり、本を読んだり、温泉を楽しんだりするのです。「これもまた、神の御手によることがわかった。」大きなことから小さなことまで全てのものは、神様(創り主)からのプレゼントです。
さらに”いかに生きるべき”でしょうか?勉強や仕事ばかりに支配されないで、全ての良いものを下さる恵みの神を喜ぶのです。「実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができようか?」罪人を愛しそのために死なれたお方<イエス・キリスト>の御支配にあることです。その恵みは、真の楽しみを生み出すのです。
はじめに書いたことですが、ただ今のことに捕われないで、eternal perspectiveを持つことで、永遠の角度からものごとを見る重要性です。私は、ある日、ゆめタウン丸亀・紀伊國屋書店で不思議なものを見ました。私の大好きな「考える人」の彫刻でした。オーキュスト・ロダン(1840−1917)の作品は、当時「地獄の門」という作品の一部でした。「神典、地獄編」に登場し、人間の運命について思考している詩人ダンテの像として制作された、と書いてありました。「考える人」ダンテは、地獄、そこある悲惨な結末を見て、それについて考えているのです。
私達もそうです。一時的な「知恵」や「仕事」ばかりを考えないで、神様を無視する自分の恐ろしい運命を考えるべきです。ダンテのように、じーっと時間をかけて考えるべきです。また、恵みに満ちているイエス・キリストの十字架の意味を考えるべきです。キリストは、私達のような罪人の死ぬべき死を十字架上で代わりと成って死にました。特に、これを考え、さらに考えるべきです。この方にある永遠の命を信じ受け入れるのです。
「世の中は喰ふてはこして寝て起きて、さてそのあとは死ぬるばかりぞ」一休。いや、一休さん、ごめん。そこで終わらないのです。聖書・ローマ5:21「私たちの主イエス・キリストによって、神の御前で正しい身分を与えられ、また、永遠の祝福を与えてくださるのである。」ここにずっと残る「楽しみ」があり、それを与える神様(創り主)御自身に永遠に残る喜びと満足があるのです。
Friday, September 18, 2009
しかし、神が私を受け入れてくださる
聖書・詩篇 49
指揮者のために。コラの子たちの賛歌
すべての国々の民よ。これを聞け。世界に住むすべての者よ。耳を傾けよ。低い者も、尊い者も、富む者も、貧しい者も、ともどもに。私の口は知恵を語り、私の心は英知を告げる。私はたとえに耳を傾け、立琴に合わせて私のなぞを解き明かそう。
どうして私は、わざわいの日に、恐れなければならないのか。私を取り囲んで中傷する者の悪意を。おのれの財産に信頼する者どもや、豊かな富を誇る者どもを。人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。自分の身代金を神に払うことはできない。‐‐たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない‐‐ 人はとこしえまでも生きながらえるであろうか。墓を見ないであろうか。
彼は見る。知恵のある者たちが死に、愚か者もまぬけ者もひとしく滅び、自分の財産を他人に残すのを。彼らは、心の中で、彼らの家は永遠に続き、その住まいは代々にまで及ぶと思い、自分たちの土地に、自分たちの名をつける。しかし人は、その栄華のうちにとどまれない。人は滅びうせる獣に等しい。これが愚か者どもの道、彼らに従い、彼らの言うことを受け入れる者どもの道である。セラ。彼らは羊のようによみに定められ、死が彼らの羊飼いとなる。朝は、直ぐな者が彼らを支配する。彼らのかたちはなくなり、よみがその住む所となる。
しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。セラ
聖書・1ペテロ1:18−21にこう書いてあります。「 ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現れてくださいました。あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。」
仏教では、死んだ後、戒名(法名、法号)をつけるのが普通です。しかし、高額な戒名料を要求されたり、その額によって戒名に差がつけられたりする事例があります。差別的な字句を含む戒名を与える風習が存在したそうです。仏教界の内部からも批判の声が出ているとのことです。戒名が一種の宗教ビジネスになっているのです。
私達は、贖宥状と戒名や、教会への献金や、高額なお葬式によってではなく、主イエス・キリストとその十字架の御業によってのみ罪赦され、神の子供となり、天国に行けるのです。すなわち、お金がなくても、子供であっても、教育が少なくても、道徳的に優れなくても、神を無視する罪を認め、キリストの十字架を信じるものは誰でも永遠の恵みに預かるのです。
Monday, September 14, 2009
911
Sunday, September 13, 2009
Friday, September 11, 2009
「愛」3
Thursday, September 10, 2009
「愛」2
「はじめに神が天と地を創造した」(創世記1:1)と聖書の第一ページにあるように、存在している神は、宇宙も、人間も、全てを創られた神で、超越して偉大な神です。また、神様は、恵み深くて「悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるのです。」聖書・マタイ5:45。愛は、原点の創り主にあるのです。私達の神のふところに真の愛があるのです。
このようなお方を愛することは、あたりまえのことです。ですから、聖書にこうあります。「一番たいせつなのはこれです。『われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。』マルコ12:29−30
イエス・キリストは、こう教えました。「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。」聖書・マタイ5:21−22。私達人間は、行動を強調しますが、神様は、先ず心を重んじます。殺人は、殺意から、憎しみから、「腹を立てること」からはじまります。娘が行っていた幼稚園の子が「死ね」と言っていたそうです。その言葉は、人の心を表しているのです。私達人間は、あまりのも多く、心の中で人を憎み、心の中で殺していて、愛がないのではないでしょうか。私も、あなたも、同じ“罪人”(つみびと)です。しかし、この世に誰がこのように神を全く愛し、この世の誰が人を自分のように愛しているでしょうか?宗教改革のマルテン・ルター(写真)は、正直で、5分も神をそのように愛していない、と言いました。
「『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」聖書・マタイ5:27−28。性的愛は、夫婦間のみで行うことで、この真実さは心の状態からはじまる、とキリストは言っていたのです。姦淫という罪を行う前に、私達は、平気で、ポルノを見たり、エロチックな本を読んだり、心の中で結婚以外の‘性’を思いめぐらしたりします。これもキリストは罪と言っているのです。このようにして、女性であっても、男性であっても、相手を‘使う’ことは、愛ではなく、罪なのです。私達は、皆、罪人です。
私達人間は、真心から創り主を愛さない、純粋に隣人を愛さない者で、逆に神と人に無関心な、いや、無視しするような者です。しかし、このような私達人間とほど遠いお方がいます。そのお方は、イエス・キリストです。創り主は、どこまで人を愛されたのでしょうか?人となるまでです。これがクリスマスです。
この方イエス・キリストは、私達のような我がままな人間の間に住みました。それでも、超自然的な愛を表す奇跡を行います。実に、人の病いを癒し、悪霊を追い出し、死人を生き返らせました。
また、人間は、創り主に立ち返ることが出来る、という愛に満ちている教えをしました。「あなたがたのうちに羊を100匹持っている人がいて、そのうちの1匹をなくしたら、その人は99匹を野原に残して、いなくなった1匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、 帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない99人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」聖書・ルカ15:4−7。
イエス・キリストは、このような素晴らし行いや、教えをしたのにも関わらず、人間に嫌われ、ねたまれ、やがて殺されました。なぜでしょうか?キリストを殺すことは、人間の罪の頂点でもありました。しかし、キリストの定めでもあり、願い出もありました。聖書・ローマ5:7にこう書いてあります。「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」唯一の神である主イエス・キリストは、十字架上で、私達の我がままな罪の裁きを、身代わりと成って受けて下さったのです。身代わりと犠牲です。ここに無条件な愛があるのです。
また、キリストは、永遠の神であるからこそ三日目に復活しました。聖書・1コリント15:3−5にこうあります。「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、3日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから12弟子に現れたことです。」死を打ち破ったキリストは、私達信じる者に復活と永遠の命、すなわち「死んでも死なない命」、の素晴らしい愛のプレゼントを下さるのです。
(つづく、「愛」3)
Wednesday, September 9, 2009
「愛」1
その500年前、直江兼続(なおえ・かねつぐ)は、ひたすら自分の利益のみを求める戦国時代に、「愛」と「義」を重んじ貫き通した武将であった、とNHK大河ドラマの「天地人」が描いています。
私の教会に尋ねて来た方が“愛”は、日本人には分からない、と言いました。聖書の‘神’や、‘罪’も、ピントこないように、“God loves you,”[神様はあなたを愛している]と言われても、日本人にはピント来ないと言われています。
夏目漱石(なつめ・そうせき)がある生徒に、「I love you を訳しなさい」と言ったそうです。生徒は「汝に恋す」とすぐ訳したそうです。しかし、漱石は、その訳に「No」と首を横に振りました。「そうではなく、それは、月が青いですね。と訳すべきだ」ちなみに、この言葉は「あなたとなら死んでもいい」だそうです。
ある人にとって、愛と言う言葉自体が下品で、あまりにも率直であるのです。ある人は、ラブホテルのようにエロチックな愛しか思い浮かびません。ある人にとって人を愛することはあまりにも「世間知らず」で、単純(英:naïve)であるのです。ある宗教では、「愛することは、人に愛着を持つことであり、苦しみのみに導く」と教えています。
しかし、400年以上も前のキリシタンの文書を読むと、「愛」ということばを使っていないことに気づきます。彼らは「お大事に」と訳していました。
チャールス・コーウィン博士(Charles Corwin)はこう書きました。「日本語の愛は、手を差し伸べて自分のものにする(というフィーリングが定着しています)。聖書のアガペ(ギリシャ語 αγάπη、agape)[の愛]は、神が(人の罪を)赦すために手を差し伸べている(愛である、と啓示ています)。」 [“Japanese AI is reaching out to possess; Biblical Agape is God reaching out to pardon.]
人の罪をも赦し、手を差し伸べる聖書の神の愛とは何でしょうか?
「はじめに神が天と地を創造した」(創世記1:1)と聖書の第一ページにあるように、存在している神は、宇宙も、人間も、全てを創られた神で、超越して偉大な神です。また、神様は、恵み深くて「悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるのです。」聖書・マタイ5:45。愛の原点は、創り主にあるのです。私達の神のふところに真の愛があるのです。心の”古里”に帰りましょう!
(つづく、 「愛」2)